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2006/08/01(火)
瑛華の言葉が真実なのかは分からないが、何も分かってないよりはずっと救いになるだろうとは思っていた。
「あのさ、知ってる?」
「何を」
「私は渚のこと、好きなんだよ」
その後、何をしたのか覚えてない。どう帰ったんだかも分からない。そのときの由夏の顔も覚えてない、きっと見ていなかったんだと思う。
「本当に?」
「いや、ウソ言ってるように見えたかな」
* * * * *
頭がぼっとした。この体が水を吸ったように重たい。どこか寝起きの状態に似ている。まだ、夢と現実の区別がつかない時間帯に目覚めてしまったようだった。
初めて感情という感情が高ぶったのは翌日の朝の玄関でのことだった。
下駄箱で挨拶を交わしたとき、昨日の静けさはウソのよう、彼女の横顔を見た途端、体に強く鼓舞した。
オレが普通に軽く笑って、普通に笑い返されたのを見ると、こんな可愛らしい女の子が、今現在、友達以上の関係なのだとようやく実感が強く沸いて、嬉しい、嬉しくて仕方がない。ぽかんと体が浮いているような、幸福感。顔が赤くなっているかもしれないということも理解した。
どうせ二人で居ても、どこに行っていいか、分かんないでしょ。そういう彼女の意見は確かに的を射ていた。
夏休み、お互いつかの間の休息を楽しもうよ、輝友たちの粋な計らいに、オレ達は素直に従った。あの夏から、彼女達に付き合っていくらか店を廻ったが、その店に失敗は一つもなかった。彼女達が紹介してくれる店は肩肘を張らなきゃいけないような店でもなく、だからといって騒がしい雰囲気ではなく、いつも決まって、外界から少しばかり遮断された空間だった。
一年前と同じ、多岐公園で待ち合わせをしていると、不思議な気分だった。一年前、予定より遥かに早く目覚めた意識がとても身近に感じられる。友達というのすら、語弊があるのを恐れたあの時とは違う。彼氏彼女という関係なんだ。
オレは、バックからケータイを取り出した。時間に厳しい瑛華は到着寸前になると、いつもメールを入れてくれていたから、それの確認のためだ。案の定、未読メールがある。走ってたから、着信に気づけなかったのだろう。
「あー、おはよ」
返事を返していると、声がかかった。聞きなれた適度に低く心地よい声、由夏の声だった。
「あ、髪切ったの?」
「うん、少し鬱陶しくなっちゃって」
彼女はそうやって、ショートの髪を手櫛で揺らした。男の子っぽいショートカットが、かえって彼女の女の子らしさを際立たせているようで、思わず頬の当りが熱くなる。
「あ、結構気に入ってもらえたんだ」
「いや。そんなことはないと思うけど」
「いいでしょ。ベリーショートってヤツ」
彼女を良く見ると、前髪のワンポイントに黄色いヘアピンを止めている。ファッションとか、流行に相変わらず疎い方なのは変らなかったが、髪形は彼女の変化をもっとも雄弁に示している気がした。
「香水前と変わったね?」
「少し、おめかししても、バチは当らないかなぁと思って。一応はじめてでしょ、こういう関係になってから街に出るの」
次の瞬間、香水の香りが強く鼻に通った。由夏の唇は思ったよりしっとりしている反面、走ってきたのか、汗で少ししょっぱかった。
身長はあまり変らないから、彼女がかがむこともない。
三秒ほど、お互いの唇が離れるまで双方の息は止まっていた。ハッという不器用な息継ぎ音が、気持ち悪い。ドラマや映画のように、キレイには出来ないものらしい。……もちろん、練習したいとは思わないけど。
「ファーストかな、これ」
「オレもだよ」
お互い微笑みあう。それでも由夏の表情は普段どおりだった。
まるで「今日は晴れですね」とでも語りかけるかのような、これと言った感情がない声。別に不快なわけじゃない。ただ、お互いの存在が当たり前みたいで、不思議だった。
オレはそう思ったことはあるか。考えてみれば、きっとない。オレの中で由夏は常に特別な存在だった。いつも傍に居るからといって、当たり前の存在になるわけじゃ、きっとないだろう。
「さて、今日は思いっきり遊ぶぞ!」
「由夏は最近勉強三昧だもんね」
「悪かったわね。何をやらせても天才君とはワケが違うもんですから」
嫌味を言う由夏の表情も思い切り笑っていた。
「天才君で悪かったですねー!」
* * * * *
足の熱が蘇り始めたのは、確かだった。
この足の違和感がタイムに影響が出ているわけではない。
しかし、走り終えた後にやってくる、足の感覚は確かに去年も感じていたものだった。
「100mの長澤…ね」
決勝の100mのために、アップをしているオレに、戸田先生が声をかけた。
さっきから集中してたからか、耳には一気にグラウンド内の歓声が押し寄せる。
「11秒43ねぇ。お前の小柄な体のどこにそんな力があるんだろうな」
「もう少し出てたと思ったんです」
「じゃぁ、実力だろう」
「そうですね。ここまでタイム出せれば『実力を出し切った』でいいでしょう」
サブグラウンドのフィールドを何度か踏みしめてみる。去年の夏と同じ。この程度では違和感がない。走り出した後にも違和感はない。しかし、走り抜けた後にオレの足を追ってきた違和感が走りぬける。
違和感を試していたオレを見て、戸田先生は一つため息をついた。
「結構お前は危険っぽいな。身長がある程度伸びないと、そのタイムについていけるだけの体が出来上がらない」
「そうでしょうか」
「だからこそ、牛乳を飲まないと。苦手だろ?」
「良く覚えてましたね」
まぁ、担任だからな。心の中で付け加える。股上げをする。強くゴムを蹴った。
「あたりまえだろう。一応三年もお前の担任やってれば」
彼のキッパリとした口調に、オレは乾いた笑いを浮かべ、彼は笑わなかった。どうやら、あながちふざけているわけではないらしい。
彼は腕を組む。筋肉の隆起が険しい。上半身も随分鍛えてるのか。
「お前は今から成長期だ。そうすればタイムはほっといても伸びるし、それに対応するだけの力を持っている。お前の場合下半身の力のみで走ろうとするから、故障が多いんだよ」
「気づいてましたか。足の違和感のこと」
彼は口元だけでニヤリとして、自身のおでこを人差し指で二度叩いた。
「癖、だろ。走り抜けた後、普通の状態ならそのまま観客席の由夏を探すんだが、違和感を感じると、足元を不安げに見つめるんだよ」
アップの足が止まった。いや、止められた、か。
(この先生、ボケてんだかしっかりしてるんだか……)
「しっかりしろよ。渚」
オレの足を見つめる顔は、心配ではなくて不安に満ちているようだった。ここまで来ると、先生すらオレを生徒として以上の、友達を見る目に近い、気がする。自惚れか。自意識過剰か。どちらにしろ嬉しいことは確かだ。
彼は続けた。
「多分肉離れに近い状態じゃないか、筋肉疲労による。誰だって感じることだろうけど、お前は小柄だし、どう考えても上半身の体力がついていけない」
「足だけで走ってるフォームってことですか?」
おしい、と彼は首を振った。
「足だけで走るフォームじゃないんだけど、上半身が弱いから使い物にならないってことよ。まぁ足だけで走っててそのタイムはもはや人間じゃないレベルだけど」
先生の話に縛られて、アップが進まないオレが居た。そんなはずはない。慌ててアップを再開すると、ずっしりとした重い抵抗が足に圧し掛かって、上手く動かない。
「辞退するか? 今は限界じゃなくても、じきに限界の波は押し寄せるだろう」
「いえ」
オレは慌てて首を振る。その勢いで足を上げると、由夏の顔が一瞬だけ目に浮かんだ。
「由夏と約束したんです。東北大会まで行くって。このままなら絶対に勝てます」
「由夏ね……」
戸田先生はそっぽを向いた、と思った。でも、実際は空を見上げているだけだった。空を見上げたまま、あらぬ方角に歩き、何かを考えている。
「キレイになったよな。アイツ。一気に垢抜けたし……なんでだろう」
「髪、切ったからじゃないですか?」
「ほぉ、ちゃんと見てるんだな。って、当然か、彼女だもんな」
彼の声は、冗談とかは全然含まない。さっきは友達の声だったけど、今度は目の前の生徒が計算問題を解いて、それを褒め称えるような……そんな声。
そんな声に、思わず目をそむけてしまう。
「違います」
強がりすらもした。
彼は、その話に深く触れようとしなかった。きっと、強がりがばれてるんだろう。少し悔しいが、先生は鋭い。他の大人はどうか分からないけど、少なくてもオレよりは、ずっとずっと。
「由夏、最近調子いいよな。大会で自己ベスト」
「本人は言ってましたよ『勝つより自己ベスト』って」
「大したもんだよ」
オレのボソリ声に戸田先生は一言だけ呟いた。視線を出来るだけ自然に見えるように気をはらいながら元に戻す。続く先生の言葉は痒くて、オレは頭をかいた。
「お前の行きたい道を行け。後悔だけは絶対ダメだ」
でも、なぜだろう、今日ほどありがたみを感じたことはなかった。
「ええ」
ノリだ。
ようやく分かった。
あんな紋切りの定型文にこんな感動するのは、きっとテンションがあがってるからだ。それは、きっと友達と過ごすときのテンションと程近いものなんだ。先生はそのオーラを持ってる。だから、こんなに嬉しい。
ふと思った。先生のようになって見たい。薄くて厚みのない理屈を何個でも連ねようとする大人じゃなくて、気張らなくても、自然に厚みに溢れる大人――
重い足で、蹴り続けたトラック。そんなトラックがこれでもかと、自身に衝撃を跳ね返してくる。その反動を武器にオレは一点、走り抜けていく。
ゴールラインを一番で割った一瞬、違和感が消えたことに気がついた。気がついた時点で、再び倒れるような重さが足にくっついてくるのだけれど、その一瞬はかけがえのないものなのかもしれない。
今はもう、重さに支配された足で、もう一度フィールドを踏みしめてみる。
赤いゴムの感触が、足にじんわりと残った。
みんなのおめでとうの声。その一つ一つに頭を下げながらオレは着替えを済ませて、普段のジャージに戻った。夏の、体全体が拘束されているような、生ぬるい空気の中。足に気を遣いながら歩いていると、道の途中で由夏とあった。
由夏の髪は汗でじんわり濡れ、軽い調子で流れる黒髪もべたつき、顔に浮かぶ淡い疲労色とあいまって、彼女全体から放たれるオーラはいつになく重苦しく感じた。
突然当った彼女の柔らかなぬくもり。
鼻につく汗のにおい。
今、体にかかるもの全てが重く感じた。足も、湿気を多く含んだこの空気も、彼女のぬくもりさえも。
普段なら、すぐにでも離してしまうのだろう。でも、今日は出来なかった、というより出来なかった。今日の由夏の重さはすかさず放り投げれるような重さではない。
「え?」
体だけが抱き合ってて、顔と顔が交錯している体制では、よく見えないが、由夏は泣いているらしい。遠慮なしに耳をつく嗚咽は、オレがかつて見たことのない泣き方だった。
オレにもう少しだけ身長があれば、彼女を見下ろして、表情を垣間見ることも出来るのだろう。でも、現時点でオレにはできないことだ。
そこまで記憶をめぐらせていると、脳裏に由夏との約束が過ぎって、ぞっとした。
負けたのか? いや。違う。
そんな……由夏は。そういう泣き方をする女じゃない。自分で言ってたじゃないか。勝つより自己ベストだと。自己ベストが出せなかったのか? いや、そんなんじゃない。もっと、重たくて、鈍い涙だ。
「負けたの?」
オレが聞いた。確認のような声だった。
「一位通過、出来たんだよ」
彼女は首を振ろうとしたらしいが、オレの体には振動としてしか伝わらなかった。
「何があったの? ……もしかして、喧嘩でもした?」
オレの言葉が確信をついていたのか。由夏の体から伝わる体の震えがやんだ。まるで、由夏という人間が胸の中から消えたようだった。オレも、息が出来なかった。
突然、体に振動がもどった。また小刻みに震えだす。嗚咽も聞こえる。オレも息が出来た。
オレは大きく息を吸う。今から、質問するぞと由夏に示す意味合いもあった。
「どうしたの?」
声は戻ってこない。当たり前か。こんな泣いてるんだ。しばらく待とう。話を聞くのはそれからでもきっと遅くない。
「私……」
不意に、耳に届いた声。
信じられない。由夏の声じゃない、きっと。そうだ。
「ゴメン」
ひとしきりして、彼女の嗚咽と振動は収まった。オレが周りに人が居ないことを確認して、ホッと手を離すと、彼女はごめんと笑う。由夏の目は笑っていた。安心する。
「しばらく歩こうか?」
オレの提案に、由夏は静かに頷いた。
「あのさ、知ってる?」
「何を」
「私は渚のこと、好きなんだよ」
その後、何をしたのか覚えてない。どう帰ったんだかも分からない。そのときの由夏の顔も覚えてない、きっと見ていなかったんだと思う。
「本当に?」
「いや、ウソ言ってるように見えたかな」
* * * * *
頭がぼっとした。この体が水を吸ったように重たい。どこか寝起きの状態に似ている。まだ、夢と現実の区別がつかない時間帯に目覚めてしまったようだった。
初めて感情という感情が高ぶったのは翌日の朝の玄関でのことだった。
下駄箱で挨拶を交わしたとき、昨日の静けさはウソのよう、彼女の横顔を見た途端、体に強く鼓舞した。
オレが普通に軽く笑って、普通に笑い返されたのを見ると、こんな可愛らしい女の子が、今現在、友達以上の関係なのだとようやく実感が強く沸いて、嬉しい、嬉しくて仕方がない。ぽかんと体が浮いているような、幸福感。顔が赤くなっているかもしれないということも理解した。
どうせ二人で居ても、どこに行っていいか、分かんないでしょ。そういう彼女の意見は確かに的を射ていた。
夏休み、お互いつかの間の休息を楽しもうよ、輝友たちの粋な計らいに、オレ達は素直に従った。あの夏から、彼女達に付き合っていくらか店を廻ったが、その店に失敗は一つもなかった。彼女達が紹介してくれる店は肩肘を張らなきゃいけないような店でもなく、だからといって騒がしい雰囲気ではなく、いつも決まって、外界から少しばかり遮断された空間だった。
一年前と同じ、多岐公園で待ち合わせをしていると、不思議な気分だった。一年前、予定より遥かに早く目覚めた意識がとても身近に感じられる。友達というのすら、語弊があるのを恐れたあの時とは違う。彼氏彼女という関係なんだ。
オレは、バックからケータイを取り出した。時間に厳しい瑛華は到着寸前になると、いつもメールを入れてくれていたから、それの確認のためだ。案の定、未読メールがある。走ってたから、着信に気づけなかったのだろう。
「あー、おはよ」
返事を返していると、声がかかった。聞きなれた適度に低く心地よい声、由夏の声だった。
「あ、髪切ったの?」
「うん、少し鬱陶しくなっちゃって」
彼女はそうやって、ショートの髪を手櫛で揺らした。男の子っぽいショートカットが、かえって彼女の女の子らしさを際立たせているようで、思わず頬の当りが熱くなる。
「あ、結構気に入ってもらえたんだ」
「いや。そんなことはないと思うけど」
「いいでしょ。ベリーショートってヤツ」
彼女を良く見ると、前髪のワンポイントに黄色いヘアピンを止めている。ファッションとか、流行に相変わらず疎い方なのは変らなかったが、髪形は彼女の変化をもっとも雄弁に示している気がした。
「香水前と変わったね?」
「少し、おめかししても、バチは当らないかなぁと思って。一応はじめてでしょ、こういう関係になってから街に出るの」
次の瞬間、香水の香りが強く鼻に通った。由夏の唇は思ったよりしっとりしている反面、走ってきたのか、汗で少ししょっぱかった。
身長はあまり変らないから、彼女がかがむこともない。
三秒ほど、お互いの唇が離れるまで双方の息は止まっていた。ハッという不器用な息継ぎ音が、気持ち悪い。ドラマや映画のように、キレイには出来ないものらしい。……もちろん、練習したいとは思わないけど。
「ファーストかな、これ」
「オレもだよ」
お互い微笑みあう。それでも由夏の表情は普段どおりだった。
まるで「今日は晴れですね」とでも語りかけるかのような、これと言った感情がない声。別に不快なわけじゃない。ただ、お互いの存在が当たり前みたいで、不思議だった。
オレはそう思ったことはあるか。考えてみれば、きっとない。オレの中で由夏は常に特別な存在だった。いつも傍に居るからといって、当たり前の存在になるわけじゃ、きっとないだろう。
「さて、今日は思いっきり遊ぶぞ!」
「由夏は最近勉強三昧だもんね」
「悪かったわね。何をやらせても天才君とはワケが違うもんですから」
嫌味を言う由夏の表情も思い切り笑っていた。
「天才君で悪かったですねー!」
* * * * *
足の熱が蘇り始めたのは、確かだった。
この足の違和感がタイムに影響が出ているわけではない。
しかし、走り終えた後にやってくる、足の感覚は確かに去年も感じていたものだった。
「100mの長澤…ね」
決勝の100mのために、アップをしているオレに、戸田先生が声をかけた。
さっきから集中してたからか、耳には一気にグラウンド内の歓声が押し寄せる。
「11秒43ねぇ。お前の小柄な体のどこにそんな力があるんだろうな」
「もう少し出てたと思ったんです」
「じゃぁ、実力だろう」
「そうですね。ここまでタイム出せれば『実力を出し切った』でいいでしょう」
サブグラウンドのフィールドを何度か踏みしめてみる。去年の夏と同じ。この程度では違和感がない。走り出した後にも違和感はない。しかし、走り抜けた後にオレの足を追ってきた違和感が走りぬける。
違和感を試していたオレを見て、戸田先生は一つため息をついた。
「結構お前は危険っぽいな。身長がある程度伸びないと、そのタイムについていけるだけの体が出来上がらない」
「そうでしょうか」
「だからこそ、牛乳を飲まないと。苦手だろ?」
「良く覚えてましたね」
まぁ、担任だからな。心の中で付け加える。股上げをする。強くゴムを蹴った。
「あたりまえだろう。一応三年もお前の担任やってれば」
彼のキッパリとした口調に、オレは乾いた笑いを浮かべ、彼は笑わなかった。どうやら、あながちふざけているわけではないらしい。
彼は腕を組む。筋肉の隆起が険しい。上半身も随分鍛えてるのか。
「お前は今から成長期だ。そうすればタイムはほっといても伸びるし、それに対応するだけの力を持っている。お前の場合下半身の力のみで走ろうとするから、故障が多いんだよ」
「気づいてましたか。足の違和感のこと」
彼は口元だけでニヤリとして、自身のおでこを人差し指で二度叩いた。
「癖、だろ。走り抜けた後、普通の状態ならそのまま観客席の由夏を探すんだが、違和感を感じると、足元を不安げに見つめるんだよ」
アップの足が止まった。いや、止められた、か。
(この先生、ボケてんだかしっかりしてるんだか……)
「しっかりしろよ。渚」
オレの足を見つめる顔は、心配ではなくて不安に満ちているようだった。ここまで来ると、先生すらオレを生徒として以上の、友達を見る目に近い、気がする。自惚れか。自意識過剰か。どちらにしろ嬉しいことは確かだ。
彼は続けた。
「多分肉離れに近い状態じゃないか、筋肉疲労による。誰だって感じることだろうけど、お前は小柄だし、どう考えても上半身の体力がついていけない」
「足だけで走ってるフォームってことですか?」
おしい、と彼は首を振った。
「足だけで走るフォームじゃないんだけど、上半身が弱いから使い物にならないってことよ。まぁ足だけで走っててそのタイムはもはや人間じゃないレベルだけど」
先生の話に縛られて、アップが進まないオレが居た。そんなはずはない。慌ててアップを再開すると、ずっしりとした重い抵抗が足に圧し掛かって、上手く動かない。
「辞退するか? 今は限界じゃなくても、じきに限界の波は押し寄せるだろう」
「いえ」
オレは慌てて首を振る。その勢いで足を上げると、由夏の顔が一瞬だけ目に浮かんだ。
「由夏と約束したんです。東北大会まで行くって。このままなら絶対に勝てます」
「由夏ね……」
戸田先生はそっぽを向いた、と思った。でも、実際は空を見上げているだけだった。空を見上げたまま、あらぬ方角に歩き、何かを考えている。
「キレイになったよな。アイツ。一気に垢抜けたし……なんでだろう」
「髪、切ったからじゃないですか?」
「ほぉ、ちゃんと見てるんだな。って、当然か、彼女だもんな」
彼の声は、冗談とかは全然含まない。さっきは友達の声だったけど、今度は目の前の生徒が計算問題を解いて、それを褒め称えるような……そんな声。
そんな声に、思わず目をそむけてしまう。
「違います」
強がりすらもした。
彼は、その話に深く触れようとしなかった。きっと、強がりがばれてるんだろう。少し悔しいが、先生は鋭い。他の大人はどうか分からないけど、少なくてもオレよりは、ずっとずっと。
「由夏、最近調子いいよな。大会で自己ベスト」
「本人は言ってましたよ『勝つより自己ベスト』って」
「大したもんだよ」
オレのボソリ声に戸田先生は一言だけ呟いた。視線を出来るだけ自然に見えるように気をはらいながら元に戻す。続く先生の言葉は痒くて、オレは頭をかいた。
「お前の行きたい道を行け。後悔だけは絶対ダメだ」
でも、なぜだろう、今日ほどありがたみを感じたことはなかった。
「ええ」
ノリだ。
ようやく分かった。
あんな紋切りの定型文にこんな感動するのは、きっとテンションがあがってるからだ。それは、きっと友達と過ごすときのテンションと程近いものなんだ。先生はそのオーラを持ってる。だから、こんなに嬉しい。
ふと思った。先生のようになって見たい。薄くて厚みのない理屈を何個でも連ねようとする大人じゃなくて、気張らなくても、自然に厚みに溢れる大人――
重い足で、蹴り続けたトラック。そんなトラックがこれでもかと、自身に衝撃を跳ね返してくる。その反動を武器にオレは一点、走り抜けていく。
ゴールラインを一番で割った一瞬、違和感が消えたことに気がついた。気がついた時点で、再び倒れるような重さが足にくっついてくるのだけれど、その一瞬はかけがえのないものなのかもしれない。
今はもう、重さに支配された足で、もう一度フィールドを踏みしめてみる。
赤いゴムの感触が、足にじんわりと残った。
みんなのおめでとうの声。その一つ一つに頭を下げながらオレは着替えを済ませて、普段のジャージに戻った。夏の、体全体が拘束されているような、生ぬるい空気の中。足に気を遣いながら歩いていると、道の途中で由夏とあった。
由夏の髪は汗でじんわり濡れ、軽い調子で流れる黒髪もべたつき、顔に浮かぶ淡い疲労色とあいまって、彼女全体から放たれるオーラはいつになく重苦しく感じた。
突然当った彼女の柔らかなぬくもり。
鼻につく汗のにおい。
今、体にかかるもの全てが重く感じた。足も、湿気を多く含んだこの空気も、彼女のぬくもりさえも。
普段なら、すぐにでも離してしまうのだろう。でも、今日は出来なかった、というより出来なかった。今日の由夏の重さはすかさず放り投げれるような重さではない。
「え?」
体だけが抱き合ってて、顔と顔が交錯している体制では、よく見えないが、由夏は泣いているらしい。遠慮なしに耳をつく嗚咽は、オレがかつて見たことのない泣き方だった。
オレにもう少しだけ身長があれば、彼女を見下ろして、表情を垣間見ることも出来るのだろう。でも、現時点でオレにはできないことだ。
そこまで記憶をめぐらせていると、脳裏に由夏との約束が過ぎって、ぞっとした。
負けたのか? いや。違う。
そんな……由夏は。そういう泣き方をする女じゃない。自分で言ってたじゃないか。勝つより自己ベストだと。自己ベストが出せなかったのか? いや、そんなんじゃない。もっと、重たくて、鈍い涙だ。
「負けたの?」
オレが聞いた。確認のような声だった。
「一位通過、出来たんだよ」
彼女は首を振ろうとしたらしいが、オレの体には振動としてしか伝わらなかった。
「何があったの? ……もしかして、喧嘩でもした?」
オレの言葉が確信をついていたのか。由夏の体から伝わる体の震えがやんだ。まるで、由夏という人間が胸の中から消えたようだった。オレも、息が出来なかった。
突然、体に振動がもどった。また小刻みに震えだす。嗚咽も聞こえる。オレも息が出来た。
オレは大きく息を吸う。今から、質問するぞと由夏に示す意味合いもあった。
「どうしたの?」
声は戻ってこない。当たり前か。こんな泣いてるんだ。しばらく待とう。話を聞くのはそれからでもきっと遅くない。
「私……」
不意に、耳に届いた声。
信じられない。由夏の声じゃない、きっと。そうだ。
「ゴメン」
ひとしきりして、彼女の嗚咽と振動は収まった。オレが周りに人が居ないことを確認して、ホッと手を離すと、彼女はごめんと笑う。由夏の目は笑っていた。安心する。
「しばらく歩こうか?」
オレの提案に、由夏は静かに頷いた。
2006/07/22(土)
「県大会出場おめでとう」
先生は子供のように無邪気な表情で右手を差し出した。オレは素直にその手を握り締めて笑って見せた。戸田先生がそのままオレに抱きついてきそうだったので、慌てて彼の体を体から引き離そうとする。しかし、彼の体は思ったより筋肉質な体で、吸盤みたいに強くくっ付こうとする先生は中々オレの体から離れようとしない。
オレが悪戦しているしているうちに彼はオレが嫌がってるのを察知したのか、手の力を急に緩めて、体を離した。
その後すぐ、冗談だと笑ったが、その真っ直ぐな目は恐らく本気で抱擁を交わそうとしたに違いない。
「お前は気楽だよな。普通に走れば優勝できる力を持ってるんだから。最後の大会だと思っても緊張しないだろ」
「いや、そんなこともないですよ」
「これは、オレの嫉妬なんだがな。オレがお前くらいだったころをつい想像しちゃんだよ。生徒が活躍して嬉しい反面で人間としてのオレが、悔しがってるんだ。少しくらい嫌味を言ってもいいだろ?」
彼は口元を緩ませる。口元だけの笑顔だった。
先生のことを凄いと思うのはこういうときだ。彼は気取ったりしない。等身大のままの自分を出す。それ以下もそれ以上もなかった。
オレも、それを続けることの難しさは知っていた。仮に相手が親友であったとしても、中々できないことだと思う。
「由夏は、どうです?」
「へ、由夏か?」
先生は少し困った顔をした。予想外の質問だったらしい。それでも、少し高いテナーの声はぶれることがない。
「正直に言おう。アイツはオレにすごい似てるんだ」
肩を揺らして、戸田先生はにっとした。あ、確かにそうかもしれない。顔は別に似てるとは思わない。雰囲気が似てる。
のほほんと構えているように見えて、一筋に芯が通ってるところとか。案外頑固なところとか。
「言うなよ。秘密だぞ。オレも実は高飛びの選手だったんだ」
「へぇ、意外」
「これでも、顧問だろうが。それで、アイツと同じように県大会まで出たんだよ」
意外といったのは口だけで、そうだろうなとは思っていた。先生はまだ選手として活躍していてもおかしくないくらいの年齢だから、違和感もない。
「何センチ飛べるんです?」
「まさか、ここばっかりは由夏と同じってわけにもいかないからな。1.7は飛べるぞ?」
「でも、由夏は160(cm)は飛びますよ。全国にいてもおかしくないレベルですよね」
「そうだな。今回の標準記録はどれくらいだっけ?」
「1m57です」
「アイツはすごいヤツだよな。自分も県大会を目指しながらお前まで励ましてるんだもの……それはともかく」
戸田先生はふっと顔を上げた。
「由夏とは仲良くやってるか? 先生達の間じゃ『デキてる』って評判だぞ?」
心がふらつくのを感じる。
何を言ってるんだ。この人は。世界が一瞬ひっくり返ったような衝撃だった。先生はこういうことでからかったりする人だったのか。二年も付き合って初めて知った。
「先生がそんなこと言っていいんですか?」
「まぁ、先生たちも人間だからなー」
先生はよく出来たようで、実は分からない言い訳を呟いて、親指を立てた。
「実際どこまで進んでるんだよ。渚」
「そういう先生だったんですか? 先生って」
「オレも人間だからなー」
オレの答えを無視して、彼はおおっぴらに笑った。
「部屋にまで? したのか、そういうこと」
「あのですねぇ。オレだってそうじゃないですし、由夏もそういうタイプじゃないですよ」
とはいいつつも、少し言葉尻が弱くなったことに気がついていた。最近の由夏は急に女らしく見えてきた。前は彼女と恋愛のイメージは遠くかけ離れて見えたが、今は違う……様な気がする。
「ところでさ、おかしいと思ったことないか?」
「何がです?」
「由夏のことだよ。人が変わるのは何度も見たことあるけど、あの手のタイプは中々変わらんものなんだ。頑固職人タイプだからな、由夏は。もともと人付き合いが上手い子じゃない」
それはオレも思っていましたと、相槌を打った。
先生の口調は場合によって鋭利になる。
おちゃらけて相手をたっぷり油断させてから、核心を突く。こればかりには、頭が分かっていても行動が追いつけないことが多いのだった。なれても、きっとなれきれないだろうと、密かに諦めていた。
「だから、最近派手な子と笑ってるのを見ると、つい心配になっちゃんだよ、心配性なもんでな。自分を犠牲にして、友達を取ってるんじゃないかなと思って」
「それってダメなんですか?」
「ケースバイケースってヤツだよ。犠牲にしすぎて、何も残らなかったら始まらないだろう。第一、何かを犠牲にして『得られる』友達なんて居ないしな」
先生も、さすが先生だ。こんなこと思ったら失礼なんだろうけど。
「天才なら分かるとは思うけどさ。美人ってのは、楽そうに見えて中々中では難しいところがあるよな」
「どういう意味ですか?」
「陸上部美人の渚なら分かるでしょ。才能とか顔立ちってのは、努力じゃどうにもならない部分なんだよ。ねたみや僻みを受けやすい。彼女はそれから必死に逃れようとしてるんじゃないか?」
「アイツがですか?」
オレは少しおどけた調子で聞き返した。先生はいまだ辛気臭い顔をしている。
「無茶しちゃうんだよな。分かる? あ、いや分かるな。お前も二年んとき強行出場しようとしただろ。あれと同じだよ」
「あの、全然意味がわかんないんですけど」
「認識しろよ。由夏ってのは美人だからな。見ようによってはの美人じゃない。正真正銘の美人だ。したがって、風当たりも強い。あの正面切った性格ではきっと限界が来る時が来る。そのときはちゃんと支えろよ?」
「分かってます」
「ならいいけど」
由夏のことをこうして考えるのすら違和感だ。由夏はそういう子じゃない。いつもそう思ってたのに。
だけど、気分は悪くなかった。そういう変化ならアリかもしれない。
「まぁ、大事にしろよ。色男」
「恥ずかしいこと言わないでください!」
オレが叫ぶと、静かな廊下に声が随分反響して、次の瞬間広がる沈黙が妙に恥ずかしかった。周りを見回す。誰も居ない。考えてみれば今日は土曜日、中総体の最終日。生徒達が校内に居るほどの用事は確かにないだろう。気分が落ち着く。
空気がしゅんと静まって、先生の顔が再び引き締まった。
「お前の見る限り、変化はないか?」
「してるんじゃないですか?」
「違う、オレが聞きたいのはお前と接してるときの由夏だ。理由まで言わせるなよ」
由夏と過ごした記憶を出来る限り引っ張ってみる。由夏を見て『違う』と思ったのは、去年の秋ごろだ。長い髪をばっさりとショートにしたあのとき。香水の匂いもしてきた。ケータイを迷わず買った。
でも、オレに対しては……意識したことはないが、別に特別なにもない。
オレの答えを聞いて、先生は少し満足げに微笑む。
「じゃぁ、今日は早く寝ろよ?」
先生は、ふっと背を向けた。職員室に戻るらしい、階段に向かって歩き始める。
「先生」
理由もなく、オレが呼び止める。先生は振り返った。少し笑みを浮かべている。
「お前仲がいいんだから、多野瑛華にでも聞いてみたらどうだよ。アイツは一番上手くやってるんじゃないか?」
「瑛華?」
彼は頷いた。先生独特のどこか軽快な雰囲気だ。その一方で口調は険しい。もしかしたら、彼が女子と一定の距離を置こうとするのは、女子の世界で上手く行かなかった過去があったのではないかと、ふと思った。
「苦労してると思うけどな、アイツ。無理してる感じはしないからそれはそれでいいけど」
聞いてみよう、彼女なら由夏のことで知ってることがあるのかもしれない。
軽く走っていると、由夏にあった。
別に珍しいわけではなく、同じ陸上部である彼女とあうのは当たり前のことだった。もともと由夏は練習好きだったし。
だが、オレ達が今日、県大会出場を決めているというシュツエーションも手伝ってか、胸がいつもよりうるさい。
「どうしたの?」
不思議な顔で覗き込んでくる由夏は日焼けなんて全然気にせずに、ハーパンとプリントシャツ一枚だった。そのシャツにもじんわり汗が滲んでいる。下着のピンクが浮かんだ。
素肌に七月の日差しは結構厳しそうだなぁと考えつつ彼女を見ていると、思いっきり怪訝そうな顔をされた。
「意外とそういうとこに興味あるの?」
由夏は自分の胸の辺りに少し不自然に視線を落とす。笑っては居なかったが、声は笑っている。
「誤解だよ。そこまではない」
「そりゃそうか」
彼女は少し用意していたように一息吸って、用意していたような口調で、一言で訊いた。
「渚って、私のことどう思ってる?」
「いや、普通にカッコいい友達だと思ってるけど」
いつもなら戸惑いと緊張で、間違えなく途切れていたであろう言葉も、案外スラリといえた。改めてこの空気に感謝し、彼女の口元から目が離せない。
どう考えても、これは告白だろうが。頭でいくらそう決め付けても、どうにも実感が沸かない。由夏があまりにもいつも通り喋っているからか。
ここで初めて視線が出会った。一年前とは比べ物にならないほど垢抜けた表情。人との接し方。ファッション。
「由夏、前々から気になってたけどさ。最近香水つけてる?」
「うん、いい感じの匂いだったから、自分を安らげる意味にもね」
「色付ティーシャツなんて、着なかったよね?」
「三年生になったから、これくらいはいいかなーって」
「でも、昔は校則は意地でも守ってたでしょ? ほら、色ティーは校則で禁止で、柄もワンポイントまでって……」
「やっぱ、ダメかな」
結論からすれば、ダメじゃない。それくらい幅が合ってもおかしくない。今どきの女の子だ。しかも一人二人じゃない。先生だって何もいうまい。もちろん由夏なら何でも似合うとは思うし、そっちのほうがドキドキするのは確かだ。でも、そこを譲ったら由夏ではないような気がしてしまうのだ。
もしかして、ここでダメといえば由夏は戻るんだろうか。そんなことはないはずだ。でも、もしかしたら。元の由夏に戻るかもしれない。
大分迷った末に、オレはかぶりを振った。由夏はほっとしたような笑顔を見せる。
「渚はいいよ。変わんなくても」
「自分でも変わったと思ってるの?」
「意識しなきゃ、こんな変えないでしょ」
意外だった。いつしか視線がぴったり一致していた。ここまで一致していると離すほうがかえって恥ずかしい。
由夏の目だった。ほんのり茶色い瞳。芯がぶれずに真っ直ぐ走る眼光。
確かに由夏は変わった。輝友の言ったとおりだ。でも、それはトータルでの話だと思う。半永久的に揺るがないはずの強い視線はまだちゃんとある。この視線がある限り、由夏は由夏だ。これを見ればきっと戸田先生だって安心するだろう。心配なんてできっこない。
「あの……」
「あのさ」
由夏と声が重なる。由夏はオレを優先してくれるようだったが、オレ自身もなにを言いたかったんだか覚えてない、理由はなかった。
素直に告げると、由夏は口を少し尖らせて「なんじゃそりゃ」と笑った。ひとしきり笑った後「次、私の番ね」。
「私は渚のこと大切に思ってるよ。だから渚が困ってる時は言ってね、いつでも駆けつけるから」
「駆けつけるって、そんな大袈裟な」
オレが笑うと、由夏は少しむっとしたように眉を吊り上げて、空を見上げた。オレもその方向を向くと、ソメイヨシノの枝木から、まぶしいほどの緑があった。
「渚の実力なら、どこかの私立に行っちゃうんだろうなってことは分かってるよ」
「そんなことないって、だって……」
「そんなことなくない。戸田先生に聞いたんだよ。もう電話が鳴ってるらしいじゃない。特待生A制度。試験、寮費、入学費、学費、部活予算費、ぜーんぶ免除。高梧坂学院からだって」
「そんなの来てるの?」
オレが思わず、素っ頓狂な声を出すと、彼女は一つため息をついて、睨みつけるように一瞥した。
「知らなかったの?」
「ゴメン」
「何笑ってるのよ」
由夏の鋭い声が飛ぶ。慌てて緩みかけた頬を戻す。少し申し訳ないことをしたと思った、由夏は真面目に話してるんだ。でも、頬は緩まなかった。どころか、笑うなと自分を戒めれば戒めるほど、顔がほころんでいく。
「由夏はもしかして、寂しがってるのかなと思ってさ。それで口調が鋭いんだったら、嬉しいじゃん」
「それで笑うの?」
「だって、由夏が真面目な顔して直球投げてくるんだから。少し笑ってもいいじゃん」
「私は真剣なんだけど」
「オレも真剣だけど、真剣だからって笑ってちゃいけないってことではないでしょ」
由夏がむっとした。それでもオレは頬を緩ませることはない。
もう知らないよ、と由夏が呟いた。ただ諦めるにしては、やけに大きなため息を残して、由夏は背中を向ける。首に巻いていたタオルで汗を拭って、由夏は走り出す。追う気はなかった。だけど、叫んでやる。
「練習にはちゃんと来てよ?」
「当たり前でしょ!」
振り向きもせず由夏は走っていく。ペースはいつも一定。安定した走りだった。上半身は中二の段階よりも丸みを帯びた。それは女の子だから、仕方がないことだ。でも、下半身は相変わらずしっかりしてる。
由夏と一緒に、行けないかな。アイツだって、スポーツ推薦を狙えるだけの力はあるだろうに。
由夏が完全に見えなくなるのを確認して、オレも走り出した。
「瑛華んところによるか」
* * * * *
瑛華の部屋は決して褒められた清潔さがあったわけではないが、適度に纏まっていた。
暇もあったし、戸田先生がいうことを、具体的に瑛華に聞いてみたいというのもあったし、瑛華と二人きりになりたいという気持ちも……少なからず、本当にちょっぴりだけど、あった。
彼女は部屋に楽器を持ち込んで練習していた。
電子メトロノームのピッピッという音が、やけに耳障りになる。
「それはトランペット?」
そっと近づいて、声をかけたのが悪かったのか、彼女はオレをしばらく睨んだ後、何か嫌味を吐こうとしたようだったが、オレの表情をみてやめたようだった。クスリと苦笑いし、弱い調子で「お茶をとってくる」と言った。少しも時間がたたないうちに、彼女は二リットルのペットボトルとコップ、それとポテトチップスを盆に乗せて、オレの前に差し出した。慣れた手つきだった。瑛華はオレや輝友以外の人をこうやって部屋の中にいれるんだろうか。それが女の子だったらいい。男だったら。
なんだか不純な想像をしてしまいそうになる。
誤魔化すように、オレは大きな咳払いをした。
「瑛華ってポテチ好きだったよな。太るぞ?」
「アンタも少しぐらい食いなさいよ。いつまでもその身長で満足してる気?」
軽い調子だったのだが、幾分鋭い言葉を返されて、オレがしばらくの間、言葉をなくすと、さすがに悪いと思ったのが、ごめんと頭を下げてから、やさしく理由を訊いてきた。
「どうしたの? これでも真面目に自主練中なんだけど」
「いや、少しだけ聞きたいことがあってさ」
瑛華の顔が少し浮き上がって見えた。笑顔を残しながら、目だけはオレをしっかりと捉えようとしている。
――こういう環境だからこそ、普段なら言うだけで逃げ出したくなるような言葉も、サラリと喋れてしまう。
「女子の世界って、そんな厳しいもん?」
「なんでそんなことが気になるの?」
「いや、最近の由夏ってやけに女っぽいと思ってさ」
「なるほどね、ある程度は察してたんだ」
オレが聞くと、彼女の表情が一点曇った。オレ達の間には妙な雰囲気が流れ込んでくる。
「やっぱりそういうこと?」
彼女は少しだけ笑顔を覗かせた。しかし、上ずった声でふーんと鼻を鳴らした後は、すぐに表情を曇らせてしまう。この様子から見て、少し動揺したようだったが、やけに落ち着いた雰囲気は、彼女自身が持つ圧倒的のキャリアの賜物なのだろう。
こういうところはやけに由夏に似ていて、やっぱり友達同士なのだと思い出す。
ベットの上に乗っかった目覚まし時計が秒針を刻む音が耳に届くたび、空気が徐々に重みを増していくのを感じた。息苦しさがない分よかったが、徐々に苦しくなっていくのは確かだった。
「思い過ごしかな?」
苦しくなって、オレが口を開く。
そんなことはない、と瑛華は即座に否定し、重たそうな口を開く。
「でもね。由夏ってもともとそういうこと気にしないタイプなんだよ。ああ見えて我が強いタイプで、人に流されるっていうのが嫌いみたい」
「それはオレの第一印象と同じだな」
あまり笑えないという表情で、瑛華は口を濁した。
「じゃぁ、やっぱり違和感はオレの勘違いか?」
「いや、それは違うって。大体女の子が変ろうとするきっかけなんて一つくらいしかないじゃない。分かる?」
「分からない」
「要するに変わりたいと思うだけじゃ変われないのよ。変わって具体的にどうなりたいっていう目標がないと。由夏の場合それはハッキリしすぎだと思うけどな」
今日初めての瑛華の笑顔は、オレにとっても久しぶりに見る笑顔だった。冬の鉄棒にふっと呼気を吹き込んだように、じんわりとした温かさがある。
「どういうこと?」
「このバカ」
ようやく気分が軽くなって、口調が程よく緩くなったところに、いつも飛び出す瑛華の鋭い口調。これもまた「彼女らしい」の一つなのだろう。言うには少し恥ずかしいが、彼女には抜群の安定感があった。なんといえばいいのだろう、特にこういうとき、瑛華は幼馴染ではなく理解者になるのだった。
「由夏は渚のことが好きなんだと思うけどなー、だからいいところ見せたいんだと思うよ」
うれしくないはずがなかった。
先生は子供のように無邪気な表情で右手を差し出した。オレは素直にその手を握り締めて笑って見せた。戸田先生がそのままオレに抱きついてきそうだったので、慌てて彼の体を体から引き離そうとする。しかし、彼の体は思ったより筋肉質な体で、吸盤みたいに強くくっ付こうとする先生は中々オレの体から離れようとしない。
オレが悪戦しているしているうちに彼はオレが嫌がってるのを察知したのか、手の力を急に緩めて、体を離した。
その後すぐ、冗談だと笑ったが、その真っ直ぐな目は恐らく本気で抱擁を交わそうとしたに違いない。
「お前は気楽だよな。普通に走れば優勝できる力を持ってるんだから。最後の大会だと思っても緊張しないだろ」
「いや、そんなこともないですよ」
「これは、オレの嫉妬なんだがな。オレがお前くらいだったころをつい想像しちゃんだよ。生徒が活躍して嬉しい反面で人間としてのオレが、悔しがってるんだ。少しくらい嫌味を言ってもいいだろ?」
彼は口元を緩ませる。口元だけの笑顔だった。
先生のことを凄いと思うのはこういうときだ。彼は気取ったりしない。等身大のままの自分を出す。それ以下もそれ以上もなかった。
オレも、それを続けることの難しさは知っていた。仮に相手が親友であったとしても、中々できないことだと思う。
「由夏は、どうです?」
「へ、由夏か?」
先生は少し困った顔をした。予想外の質問だったらしい。それでも、少し高いテナーの声はぶれることがない。
「正直に言おう。アイツはオレにすごい似てるんだ」
肩を揺らして、戸田先生はにっとした。あ、確かにそうかもしれない。顔は別に似てるとは思わない。雰囲気が似てる。
のほほんと構えているように見えて、一筋に芯が通ってるところとか。案外頑固なところとか。
「言うなよ。秘密だぞ。オレも実は高飛びの選手だったんだ」
「へぇ、意外」
「これでも、顧問だろうが。それで、アイツと同じように県大会まで出たんだよ」
意外といったのは口だけで、そうだろうなとは思っていた。先生はまだ選手として活躍していてもおかしくないくらいの年齢だから、違和感もない。
「何センチ飛べるんです?」
「まさか、ここばっかりは由夏と同じってわけにもいかないからな。1.7は飛べるぞ?」
「でも、由夏は160(cm)は飛びますよ。全国にいてもおかしくないレベルですよね」
「そうだな。今回の標準記録はどれくらいだっけ?」
「1m57です」
「アイツはすごいヤツだよな。自分も県大会を目指しながらお前まで励ましてるんだもの……それはともかく」
戸田先生はふっと顔を上げた。
「由夏とは仲良くやってるか? 先生達の間じゃ『デキてる』って評判だぞ?」
心がふらつくのを感じる。
何を言ってるんだ。この人は。世界が一瞬ひっくり返ったような衝撃だった。先生はこういうことでからかったりする人だったのか。二年も付き合って初めて知った。
「先生がそんなこと言っていいんですか?」
「まぁ、先生たちも人間だからなー」
先生はよく出来たようで、実は分からない言い訳を呟いて、親指を立てた。
「実際どこまで進んでるんだよ。渚」
「そういう先生だったんですか? 先生って」
「オレも人間だからなー」
オレの答えを無視して、彼はおおっぴらに笑った。
「部屋にまで? したのか、そういうこと」
「あのですねぇ。オレだってそうじゃないですし、由夏もそういうタイプじゃないですよ」
とはいいつつも、少し言葉尻が弱くなったことに気がついていた。最近の由夏は急に女らしく見えてきた。前は彼女と恋愛のイメージは遠くかけ離れて見えたが、今は違う……様な気がする。
「ところでさ、おかしいと思ったことないか?」
「何がです?」
「由夏のことだよ。人が変わるのは何度も見たことあるけど、あの手のタイプは中々変わらんものなんだ。頑固職人タイプだからな、由夏は。もともと人付き合いが上手い子じゃない」
それはオレも思っていましたと、相槌を打った。
先生の口調は場合によって鋭利になる。
おちゃらけて相手をたっぷり油断させてから、核心を突く。こればかりには、頭が分かっていても行動が追いつけないことが多いのだった。なれても、きっとなれきれないだろうと、密かに諦めていた。
「だから、最近派手な子と笑ってるのを見ると、つい心配になっちゃんだよ、心配性なもんでな。自分を犠牲にして、友達を取ってるんじゃないかなと思って」
「それってダメなんですか?」
「ケースバイケースってヤツだよ。犠牲にしすぎて、何も残らなかったら始まらないだろう。第一、何かを犠牲にして『得られる』友達なんて居ないしな」
先生も、さすが先生だ。こんなこと思ったら失礼なんだろうけど。
「天才なら分かるとは思うけどさ。美人ってのは、楽そうに見えて中々中では難しいところがあるよな」
「どういう意味ですか?」
「陸上部美人の渚なら分かるでしょ。才能とか顔立ちってのは、努力じゃどうにもならない部分なんだよ。ねたみや僻みを受けやすい。彼女はそれから必死に逃れようとしてるんじゃないか?」
「アイツがですか?」
オレは少しおどけた調子で聞き返した。先生はいまだ辛気臭い顔をしている。
「無茶しちゃうんだよな。分かる? あ、いや分かるな。お前も二年んとき強行出場しようとしただろ。あれと同じだよ」
「あの、全然意味がわかんないんですけど」
「認識しろよ。由夏ってのは美人だからな。見ようによってはの美人じゃない。正真正銘の美人だ。したがって、風当たりも強い。あの正面切った性格ではきっと限界が来る時が来る。そのときはちゃんと支えろよ?」
「分かってます」
「ならいいけど」
由夏のことをこうして考えるのすら違和感だ。由夏はそういう子じゃない。いつもそう思ってたのに。
だけど、気分は悪くなかった。そういう変化ならアリかもしれない。
「まぁ、大事にしろよ。色男」
「恥ずかしいこと言わないでください!」
オレが叫ぶと、静かな廊下に声が随分反響して、次の瞬間広がる沈黙が妙に恥ずかしかった。周りを見回す。誰も居ない。考えてみれば今日は土曜日、中総体の最終日。生徒達が校内に居るほどの用事は確かにないだろう。気分が落ち着く。
空気がしゅんと静まって、先生の顔が再び引き締まった。
「お前の見る限り、変化はないか?」
「してるんじゃないですか?」
「違う、オレが聞きたいのはお前と接してるときの由夏だ。理由まで言わせるなよ」
由夏と過ごした記憶を出来る限り引っ張ってみる。由夏を見て『違う』と思ったのは、去年の秋ごろだ。長い髪をばっさりとショートにしたあのとき。香水の匂いもしてきた。ケータイを迷わず買った。
でも、オレに対しては……意識したことはないが、別に特別なにもない。
オレの答えを聞いて、先生は少し満足げに微笑む。
「じゃぁ、今日は早く寝ろよ?」
先生は、ふっと背を向けた。職員室に戻るらしい、階段に向かって歩き始める。
「先生」
理由もなく、オレが呼び止める。先生は振り返った。少し笑みを浮かべている。
「お前仲がいいんだから、多野瑛華にでも聞いてみたらどうだよ。アイツは一番上手くやってるんじゃないか?」
「瑛華?」
彼は頷いた。先生独特のどこか軽快な雰囲気だ。その一方で口調は険しい。もしかしたら、彼が女子と一定の距離を置こうとするのは、女子の世界で上手く行かなかった過去があったのではないかと、ふと思った。
「苦労してると思うけどな、アイツ。無理してる感じはしないからそれはそれでいいけど」
聞いてみよう、彼女なら由夏のことで知ってることがあるのかもしれない。
軽く走っていると、由夏にあった。
別に珍しいわけではなく、同じ陸上部である彼女とあうのは当たり前のことだった。もともと由夏は練習好きだったし。
だが、オレ達が今日、県大会出場を決めているというシュツエーションも手伝ってか、胸がいつもよりうるさい。
「どうしたの?」
不思議な顔で覗き込んでくる由夏は日焼けなんて全然気にせずに、ハーパンとプリントシャツ一枚だった。そのシャツにもじんわり汗が滲んでいる。下着のピンクが浮かんだ。
素肌に七月の日差しは結構厳しそうだなぁと考えつつ彼女を見ていると、思いっきり怪訝そうな顔をされた。
「意外とそういうとこに興味あるの?」
由夏は自分の胸の辺りに少し不自然に視線を落とす。笑っては居なかったが、声は笑っている。
「誤解だよ。そこまではない」
「そりゃそうか」
彼女は少し用意していたように一息吸って、用意していたような口調で、一言で訊いた。
「渚って、私のことどう思ってる?」
「いや、普通にカッコいい友達だと思ってるけど」
いつもなら戸惑いと緊張で、間違えなく途切れていたであろう言葉も、案外スラリといえた。改めてこの空気に感謝し、彼女の口元から目が離せない。
どう考えても、これは告白だろうが。頭でいくらそう決め付けても、どうにも実感が沸かない。由夏があまりにもいつも通り喋っているからか。
ここで初めて視線が出会った。一年前とは比べ物にならないほど垢抜けた表情。人との接し方。ファッション。
「由夏、前々から気になってたけどさ。最近香水つけてる?」
「うん、いい感じの匂いだったから、自分を安らげる意味にもね」
「色付ティーシャツなんて、着なかったよね?」
「三年生になったから、これくらいはいいかなーって」
「でも、昔は校則は意地でも守ってたでしょ? ほら、色ティーは校則で禁止で、柄もワンポイントまでって……」
「やっぱ、ダメかな」
結論からすれば、ダメじゃない。それくらい幅が合ってもおかしくない。今どきの女の子だ。しかも一人二人じゃない。先生だって何もいうまい。もちろん由夏なら何でも似合うとは思うし、そっちのほうがドキドキするのは確かだ。でも、そこを譲ったら由夏ではないような気がしてしまうのだ。
もしかして、ここでダメといえば由夏は戻るんだろうか。そんなことはないはずだ。でも、もしかしたら。元の由夏に戻るかもしれない。
大分迷った末に、オレはかぶりを振った。由夏はほっとしたような笑顔を見せる。
「渚はいいよ。変わんなくても」
「自分でも変わったと思ってるの?」
「意識しなきゃ、こんな変えないでしょ」
意外だった。いつしか視線がぴったり一致していた。ここまで一致していると離すほうがかえって恥ずかしい。
由夏の目だった。ほんのり茶色い瞳。芯がぶれずに真っ直ぐ走る眼光。
確かに由夏は変わった。輝友の言ったとおりだ。でも、それはトータルでの話だと思う。半永久的に揺るがないはずの強い視線はまだちゃんとある。この視線がある限り、由夏は由夏だ。これを見ればきっと戸田先生だって安心するだろう。心配なんてできっこない。
「あの……」
「あのさ」
由夏と声が重なる。由夏はオレを優先してくれるようだったが、オレ自身もなにを言いたかったんだか覚えてない、理由はなかった。
素直に告げると、由夏は口を少し尖らせて「なんじゃそりゃ」と笑った。ひとしきり笑った後「次、私の番ね」。
「私は渚のこと大切に思ってるよ。だから渚が困ってる時は言ってね、いつでも駆けつけるから」
「駆けつけるって、そんな大袈裟な」
オレが笑うと、由夏は少しむっとしたように眉を吊り上げて、空を見上げた。オレもその方向を向くと、ソメイヨシノの枝木から、まぶしいほどの緑があった。
「渚の実力なら、どこかの私立に行っちゃうんだろうなってことは分かってるよ」
「そんなことないって、だって……」
「そんなことなくない。戸田先生に聞いたんだよ。もう電話が鳴ってるらしいじゃない。特待生A制度。試験、寮費、入学費、学費、部活予算費、ぜーんぶ免除。高梧坂学院からだって」
「そんなの来てるの?」
オレが思わず、素っ頓狂な声を出すと、彼女は一つため息をついて、睨みつけるように一瞥した。
「知らなかったの?」
「ゴメン」
「何笑ってるのよ」
由夏の鋭い声が飛ぶ。慌てて緩みかけた頬を戻す。少し申し訳ないことをしたと思った、由夏は真面目に話してるんだ。でも、頬は緩まなかった。どころか、笑うなと自分を戒めれば戒めるほど、顔がほころんでいく。
「由夏はもしかして、寂しがってるのかなと思ってさ。それで口調が鋭いんだったら、嬉しいじゃん」
「それで笑うの?」
「だって、由夏が真面目な顔して直球投げてくるんだから。少し笑ってもいいじゃん」
「私は真剣なんだけど」
「オレも真剣だけど、真剣だからって笑ってちゃいけないってことではないでしょ」
由夏がむっとした。それでもオレは頬を緩ませることはない。
もう知らないよ、と由夏が呟いた。ただ諦めるにしては、やけに大きなため息を残して、由夏は背中を向ける。首に巻いていたタオルで汗を拭って、由夏は走り出す。追う気はなかった。だけど、叫んでやる。
「練習にはちゃんと来てよ?」
「当たり前でしょ!」
振り向きもせず由夏は走っていく。ペースはいつも一定。安定した走りだった。上半身は中二の段階よりも丸みを帯びた。それは女の子だから、仕方がないことだ。でも、下半身は相変わらずしっかりしてる。
由夏と一緒に、行けないかな。アイツだって、スポーツ推薦を狙えるだけの力はあるだろうに。
由夏が完全に見えなくなるのを確認して、オレも走り出した。
「瑛華んところによるか」
* * * * *
瑛華の部屋は決して褒められた清潔さがあったわけではないが、適度に纏まっていた。
暇もあったし、戸田先生がいうことを、具体的に瑛華に聞いてみたいというのもあったし、瑛華と二人きりになりたいという気持ちも……少なからず、本当にちょっぴりだけど、あった。
彼女は部屋に楽器を持ち込んで練習していた。
電子メトロノームのピッピッという音が、やけに耳障りになる。
「それはトランペット?」
そっと近づいて、声をかけたのが悪かったのか、彼女はオレをしばらく睨んだ後、何か嫌味を吐こうとしたようだったが、オレの表情をみてやめたようだった。クスリと苦笑いし、弱い調子で「お茶をとってくる」と言った。少しも時間がたたないうちに、彼女は二リットルのペットボトルとコップ、それとポテトチップスを盆に乗せて、オレの前に差し出した。慣れた手つきだった。瑛華はオレや輝友以外の人をこうやって部屋の中にいれるんだろうか。それが女の子だったらいい。男だったら。
なんだか不純な想像をしてしまいそうになる。
誤魔化すように、オレは大きな咳払いをした。
「瑛華ってポテチ好きだったよな。太るぞ?」
「アンタも少しぐらい食いなさいよ。いつまでもその身長で満足してる気?」
軽い調子だったのだが、幾分鋭い言葉を返されて、オレがしばらくの間、言葉をなくすと、さすがに悪いと思ったのが、ごめんと頭を下げてから、やさしく理由を訊いてきた。
「どうしたの? これでも真面目に自主練中なんだけど」
「いや、少しだけ聞きたいことがあってさ」
瑛華の顔が少し浮き上がって見えた。笑顔を残しながら、目だけはオレをしっかりと捉えようとしている。
――こういう環境だからこそ、普段なら言うだけで逃げ出したくなるような言葉も、サラリと喋れてしまう。
「女子の世界って、そんな厳しいもん?」
「なんでそんなことが気になるの?」
「いや、最近の由夏ってやけに女っぽいと思ってさ」
「なるほどね、ある程度は察してたんだ」
オレが聞くと、彼女の表情が一点曇った。オレ達の間には妙な雰囲気が流れ込んでくる。
「やっぱりそういうこと?」
彼女は少しだけ笑顔を覗かせた。しかし、上ずった声でふーんと鼻を鳴らした後は、すぐに表情を曇らせてしまう。この様子から見て、少し動揺したようだったが、やけに落ち着いた雰囲気は、彼女自身が持つ圧倒的のキャリアの賜物なのだろう。
こういうところはやけに由夏に似ていて、やっぱり友達同士なのだと思い出す。
ベットの上に乗っかった目覚まし時計が秒針を刻む音が耳に届くたび、空気が徐々に重みを増していくのを感じた。息苦しさがない分よかったが、徐々に苦しくなっていくのは確かだった。
「思い過ごしかな?」
苦しくなって、オレが口を開く。
そんなことはない、と瑛華は即座に否定し、重たそうな口を開く。
「でもね。由夏ってもともとそういうこと気にしないタイプなんだよ。ああ見えて我が強いタイプで、人に流されるっていうのが嫌いみたい」
「それはオレの第一印象と同じだな」
あまり笑えないという表情で、瑛華は口を濁した。
「じゃぁ、やっぱり違和感はオレの勘違いか?」
「いや、それは違うって。大体女の子が変ろうとするきっかけなんて一つくらいしかないじゃない。分かる?」
「分からない」
「要するに変わりたいと思うだけじゃ変われないのよ。変わって具体的にどうなりたいっていう目標がないと。由夏の場合それはハッキリしすぎだと思うけどな」
今日初めての瑛華の笑顔は、オレにとっても久しぶりに見る笑顔だった。冬の鉄棒にふっと呼気を吹き込んだように、じんわりとした温かさがある。
「どういうこと?」
「このバカ」
ようやく気分が軽くなって、口調が程よく緩くなったところに、いつも飛び出す瑛華の鋭い口調。これもまた「彼女らしい」の一つなのだろう。言うには少し恥ずかしいが、彼女には抜群の安定感があった。なんといえばいいのだろう、特にこういうとき、瑛華は幼馴染ではなく理解者になるのだった。
「由夏は渚のことが好きなんだと思うけどなー、だからいいところ見せたいんだと思うよ」
うれしくないはずがなかった。
2006/07/19(水)
「これで、野活委員も終わりか」
由夏の声が幾分か寂しげに聞こえた。
「あ、もしかして寂しいの?」
もしかしたら、イエスの答えが返ってくるかもしれない。甘い思いが頭を過ぎった。
「寂しくは無いけどさ。なんだか、今までずっと渚と一緒に居たのが急に無くなっちゃうんだと思うと、複雑っていうか」
由夏の言葉はオレの思いも同時に代弁してくれている、そう思えるくらい由夏の言葉はオレの心にピッタリだった。
寂しくないか、と聞かれれば絶対ウソになる。だからといって、野活という時間が永遠に続いていればいいとは思わない。結局どちらなんだと詰問されるとする自分自身を見て、頭が焼けているような熱さを感じた。
でも、確かなことは一つ。たった一つ、されど一つ。
由夏とはもっと喋っていたい。一緒に居たい。このまま喋れなくなるのは怖い。
「どうせだからさ。一緒に楽しもうよ、ね?」
由夏が語尾にアクセントをつけ、念を押す。オレは今まで考えていたことを悟られないよう、目元に力を入れる。にやけていたくなかった。
「そうだよ、な」
そうだ。由夏と瑛華は親友だったではないか。
まだ、つながりが消えるわけじゃない。瑛華となら、気軽に話せる。
「さ、今日は早く家に帰ろ? せっかく今日の部活を休みにしてもらったんだから」
曖昧に頷いて、それからすぐに由夏と別れた。野活は明日にまで迫っていた。
家路に就きながら、まだまだ強い九月の太陽に照らされ、熱されたアスファルトを踏みしめる。乾燥した空気だった。一切の無駄もない風が汗ばんだ頬をさっと撫でていく。
* * * * *
旅館に着いた頃には体が重かった。足以外の筋肉が張るなんて久しぶりだ。い草のほのかに甘い匂い、誘われるように部屋に入ると、そのまま身を重力に委ねた。
「外国人がさ。畳のことをジャパニーズマットって言うらしいけど、その意味なんとなく分かる気がするね」
「へぇ、それは無駄知識だな。11へぇだ」
「ありがとうございます」
輝友が笑いながら、オレが放り投げたバックを隅に寄せた。意外と几帳面なところがあるんだ。
体温によって畳と体の間に熱が挟まれないよう、適当に体を転がす。時折頬に畳の冷たい感触が伝わる。気持ちがいい。
「しかしさぁ。ホテルじゃなきゃ風情が出ないよな」
「なんで? 旅館のほうがいいじゃねぇの?」
「だって、枕投げも出来ないしさ。女の子を仮に部屋に呼んでも、なんとなくときめかない感じじゃん」
枕投げはホテルのほうが出来ないと思うが、口にするのは多少なりとも億劫だった。
オレが口を開かないのもお構いなしに、輝友は更に続ける。
「渚って『そういうこと』考えたことある?」
「はぁ?」
突然の言葉にオレは口を濁した。
「由夏ちゃんの裸とか、想像したことある?」
「あるかよ、ボケ」
「ふーん。無いんだ」
輝友は深い笑みをちらつかせる。悪戯っ子のようにキラキラ眩しく輝いた目をしていた。オレは少し目を瞑った。
「陸上やってる子って基本的、胸ちっちゃいじゃん? でも由夏は大分大きいよね。ほら、ティーシャツ一枚の由夏を凝視できるのは同じ陸上部の渚の特権だろ?」
「あんま、興味ないよ」
「へぇ。珍しいんだな」
「お前が変態のだけだよ」
輝友は笑顔を崩さないまま、そういえば、と頷いた。その話題はそこで切るつもりらしい。ありがたい、純粋に思った。
「お前さぁ。ケータイ買おうっていう気ない?」
「ケータイ?」
「いい加減、ピッチじゃ限界があるだろ? ほら、最近のケータイだと音楽が聞けるようなのもあるし、お前が苦手だったメールとかも、大分やりやすくなってるしさ。瑛華とか由夏とか、皆で買おうよ」
話自体はとても魅力的だが、一つ壁があることを輝友は覚えているのだろうか。自然に眉間に力が入っていた。思い出すだけで、ちょっと腹が立つ。
「ウチの親のこと、知ってる?」
ため息混じりにオレが訊いた。
「覚えてるよ、あの頑固オヤジと無気力おばさんだろ?」
輝友が即答する。
「言い方が悪すぎる」
「悪い」
「まぁ、その通りなんだが」
「……なるほど。買ってもらえるはずがない、と?」
念を押すような輝友の声。不思議とガッカリはしてないようだった。その表情は気になったが、否定する余地もなかったため、頷く。
「そういうことだよ」
「あげようか?」
「何を?」
「ウチの姉貴もケータイ買ったんだけど、抽選で一万円割引券があるんだよ。でも、オレはもう買っちゃったってやつでだな」
つい、体が飛び上がる。
「マジで、いいの?」
「そりゃ、いいけど、苦しいっつの。抱きつくな、汗臭…くもないけど。この匂いは8×4だな?」
「そう。やべぇ、マジ嬉しい。持つべきもんは友達だわ」
輝友とは家族ぐるみで付き合ってきたが、まさかこんなことがあるとは。なんだか、胸にじんわりと来るものがあった。
「瑛華なんかは、アイツ金持ちのぼんぼんだからさ」
「そういえば、由夏んちって駄菓子屋だよな」
「そういえば、そうだな」
「金持ちなのか? 駄菓子屋って」
輝友はかぶりを振る。それくらい考えろよといわんばかりの視線だった。
「まぁ、普通に生活は出来ると思うけど、ぼんぼんにはならんわな」
「そりゃそうか」
輝友から体を離す。冷やした体がまた熱くなっていた。
「なぁ。最近由夏って変ったとおもわねぇ?」
「へ?」
不意をつかれた。別にボーっとしてたわけじゃない、輝友の表情が山中で獰猛な一匹狼に出会ったように凍えていたからだ。
これが輝友の表情なのか。心臓に釘でもつきたてられてるような気分だった。
「なんで?」
意味が分からない。由夏は由夏のままだ。近くにいたオレが一番良く分かっている。
考えをそのまま言ってのけると、輝友は安心したように笑顔を浮かべた。
「お前が言うんだから間違えないよな」
「さぁ。オレも実は良くわかんないけど。そういうのがよく分かる……瑛華とかに聞けばいいだろ」
「聞けたら、聞かないよ」
「はぁ? なんで」
輝友は笑顔を崩さないまま言う。
「女の子同士の変化なんつーもんは、お互いにはわかんないもんなんだよ。女の子の変化に敏感なのは、付き合ってる男だろ」
「付き合ってる男?」
「同じようなもんだろ。ほぼ密室に一緒に居てさ。部活になれば七時までずーっと一緒で。噂になってるぞ? もっともオレが流してるんだけど」
彼は勝ち誇ったように親指を立てる。輝友はこういう話が好きなのは知っていたが、本当に嬉しそうだ。
「どうなの? キスとかは済ませた」
「するはずないだろ。由夏とオレだぞ? 第一……」
いや、と輝友が遮る。
「ぱっと見だけど、お似合いじゃんね。由夏は美人だし」
否定は出来ない。悔しいけど、否定はしたくない。
思わず畳に座り込む。恋話は、あまり得意じゃない。きっと苦手だ。
「まぁ、素直なのが渚のいいところだよ」
輝友は相変わらず嬉しそうに、肩を何度か叩いた。
変ってる? 由夏が。「温泉に入ってくる」と、部屋を出た輝友のひょろっとして、表面積が小さい背中を見ながら、頭の中で先ほどの言葉を繰り返す。
アイツはすぐおどけたけど、あの表情は本物だった。何かを恐れるような、実体のない笑み。一瞬、オレはあれが輝友であることすら疑った。
輝友だぞ? 何年も、幼稚園時代から風呂に一緒に入った仲だろうが。
なんでも知ってる。そんなつもりで居た。
「由夏も、そうなのかなぁ」
由夏の表情を思い出す。どうしようもない感情だ。胸が熱くなる。
確かに可愛い、と思ったことがないといえばウソになる。好きじゃないはずがない。
由夏も、ああいう表情をするんだろうか。輝友のことも全て知らない。オレの知ってる由夏はどこまで本当なのか。知ってる由夏さえも、変ってしまうものなのか。変わり行くものなのか。
* * * * *
「考えてみりゃさ、なんで男の部屋に女子が行っちゃいけないの?」
「輝友みたいなやつがたくさん居るからだよ」
野活実行委員の立場から、素早くコメントする。輝友の顔が沈んだ。
「でもさぁ。由夏には会いたいでしょ? 由夏のパジャマ、見たいと思わない?」
「あ、それなら先生達との反省会で見れるから、別にいいよ」
「……見る気ではいるんだな?」
旅館では100人近い藤ヶ浦中の二年生を収容できるような、大きな場所がないため、食事は個室で取ることになっていた。もうじき、食事が運ばれてくるはずだった。
「二人で食事ってのも、ヤダなぁ」
「仕方ないだろ? 人数を上手く合わせるにはオレが犠牲になんなきゃいけなかったんだよ」
「お前が犠牲になるのは構わないけどさぁ。オレまで犠牲にならなきゃいけないとは」
本当にいやなら、オレが頼んだ時にきっぱり断ればいいのだが。断れないのが、輝友だった。これは、間違えない。きっとこれ以上変わらない輝友だ。
「……こっそり由夏のこと呼んでこようよ。二人じゃトランプの一つも出来ないだろ?」
「三人でもどうすんだよ」
「じゃぁ瑛華も呼んで四人か?」
「……誘うならお前が誘えよ。オレが怒られるのはごめんだ」
「おっけ。じゃぁ誘っとくわ」
輝友が依然張り切るのを横目に、オレはペンケースやファイルを持って部屋を出た。自主研修の反省会が先生を含んで行われるのだった。
反省会自体はそんなに時間が掛かるものではなかった。先生も、早く美味い酒が飲みたいのか、説教らしきものは見当たらない。先生としてではなく、人間としての意思が強く働いているようだった。
少しスキップ調に、ほとんどの先生が外に出ていく。そのなかで戸田先生だけは生徒の中に残っていた。
早く休みたいのは生徒としても一緒で、戸田先生が残ったことで小言を言われるかもしれないと思ったらしい。少しむっとしたように、眉間にしわがよっていた。もっとも戸田先生が小言をいえるとも思わないが。
「渚、ちょっと話が」
「え、はい」
「由夏も、少し残って。あとは帰っていいぞ?」
軽く哀れむような視線を残して、彼らは部屋から出て行った。
「先生は飲みにいかなくていいんですか?」
オレが笑いながら言った。傍らの由夏も意味を悟ったのか、頬を緩ませている。
「オレは酒がどうも苦手なんでな。って、なんでお前らがそのこと知ってるんだよ」
「職員室に遊びに言ったとき、不意に聞いたんです」
そうか、と戸田先生も笑う。
「それでさ。少し話したいことがあって」
「なんですか?」
由夏が訊いた。確実に説教ではないな。確信が持てる。オレも、彼とは一年ずっと付き合っているが、根が穏やかであるのはよく知っていたし、何よりもすでに流れている空気を打ち破ってまで大声を張り上げる人ではなかった。
「いやね、暇なら少し付き合ってもらいたいと思ってさ」
「先生にですか?」
由夏があまりにも露骨に嫌悪をむき出しにするので、先生は少し凹んだようだったが、とがめる様子はない。
「あんま良くないことなんだけどね」
「なんです?」
「見回りなんてもんは、要するに下っ端がやることになってんだよ」
「下っ端?」
由夏が唐突に笑う。無理もなかった。オレも、先生がこんな物悲しげな表情を浮かべてさえ居なければきっと笑っただろう。彼の口調に「下っ端」という言葉、異様なくらいにマッチしていた。
「んで、今日はきっと皆酔いつぶれちゃうからさ。ほら、今年の二年生は老輩の先生方が多いから……」
先生の声は止まった。これ以上は言う必要がなかった。
「手伝ってくれと?」
先生はオレ達の前で、手を合わせた。パンッと乾いた音がした。
「お願いっ!」
由夏と顔を見合わせる。由夏はちょっと嬉しそうに頬を緩ませている。素直な子だ。気分を害せば害したなりの表情をして、嬉しければそれ相応に嬉しそうな顔をする。その表情がかわいいのだった。
変わってるって? それはねぇよ。この由夏だぞ? お前が思ってるよりずっと頑固者なんだ。たとえ変わってたとしても、輝友の恐れるような方向には絶対変わらない。
「見回りっていつからです?」
「大体生徒が夜騒ぎそうな時間帯ってのは、11時ごろなんだよ」
「じゃぁ、そこからですか」
「でもガキだからな。疲れれば、起きてられないだろ。だから大体1時くらいまで出来れば……」
「付き合いますよ」
輝友には悪いと思いながら、由夏としばらく一緒に歩くのも悪くないな、そう思った。
廊下のところどころ設置されている獅子落とし。沈黙ではない静寂を作っていた。その中で、よく耳を澄ますと、部屋のところどころでヒソヒソ話が聞こえる。どの組の女の子がどうだとか、大体そんな話だ。人は眠くなると大っぴらになる。
「もうじき新人戦だね」
由夏は色素の薄く、栗色にも見える髪を手櫛で撫でる。由夏なら、きっと新人大会にも出てくる。注意してみれば、彼女の実力はしっかり分かる。彼女のイメージががり勉ではなくなる日もきっと近いだろうと思う。高飛びの記録だけ見れば、県大会の上位に混ぜても全然おかしくない。
「由夏も出るよな?」
「うん」
「自信あるか?」
彼女は首を捻った。だが、自信がないわけではないだろう。
「自己ベストだよ。ほら、前もいったじゃん」
「『勝つより自己ベスト』ってね。由夏らしい、マイペースだよな。由夏はそのままでいいんだと思うよ」
「私らしいってのはマイペースなの? 私そんなにのんびりしてる?」
そういう意味じゃないと、オレが言った。
でも、いざ目の前の当人に説明しようとなると言葉がないことに気づく。周りが見えてないわけじゃない、浮いているというわけでもないだろう。ただ、彼女は普通の女の子ではない。彼女のペースが彼女自身の体の中に組み込まれている。人に合わせることは出来ない。
「答えないってのはダメか?」
「……まぁ、いいけど」
言葉では示しがつかなかった。心の中ではなんとなく分かってるものなのに、実体として言葉で表しがつかない。
オレは結局答えられなかった。
「夏なのに、秋だよね」
「よく意味がわかんないぞ?」
「いや、ね。こんな暑いのに、九月だって。時が経つのは早いよ。あっという間に、受験生になってるんだろうね」
少し意外だった。由夏らしくない、とも一瞬だけ思った。
どんな時でも、自分に素直なのが由夏だ。周りに流されないのが由夏だ。受験という言葉が由夏から出てくるなんて、思いもしなかった。
獅子落としが乾いた音を立てた。
確かに、夏はもうそろそろ終わろうとしているようだった。
由夏の声が幾分か寂しげに聞こえた。
「あ、もしかして寂しいの?」
もしかしたら、イエスの答えが返ってくるかもしれない。甘い思いが頭を過ぎった。
「寂しくは無いけどさ。なんだか、今までずっと渚と一緒に居たのが急に無くなっちゃうんだと思うと、複雑っていうか」
由夏の言葉はオレの思いも同時に代弁してくれている、そう思えるくらい由夏の言葉はオレの心にピッタリだった。
寂しくないか、と聞かれれば絶対ウソになる。だからといって、野活という時間が永遠に続いていればいいとは思わない。結局どちらなんだと詰問されるとする自分自身を見て、頭が焼けているような熱さを感じた。
でも、確かなことは一つ。たった一つ、されど一つ。
由夏とはもっと喋っていたい。一緒に居たい。このまま喋れなくなるのは怖い。
「どうせだからさ。一緒に楽しもうよ、ね?」
由夏が語尾にアクセントをつけ、念を押す。オレは今まで考えていたことを悟られないよう、目元に力を入れる。にやけていたくなかった。
「そうだよ、な」
そうだ。由夏と瑛華は親友だったではないか。
まだ、つながりが消えるわけじゃない。瑛華となら、気軽に話せる。
「さ、今日は早く家に帰ろ? せっかく今日の部活を休みにしてもらったんだから」
曖昧に頷いて、それからすぐに由夏と別れた。野活は明日にまで迫っていた。
家路に就きながら、まだまだ強い九月の太陽に照らされ、熱されたアスファルトを踏みしめる。乾燥した空気だった。一切の無駄もない風が汗ばんだ頬をさっと撫でていく。
* * * * *
旅館に着いた頃には体が重かった。足以外の筋肉が張るなんて久しぶりだ。い草のほのかに甘い匂い、誘われるように部屋に入ると、そのまま身を重力に委ねた。
「外国人がさ。畳のことをジャパニーズマットって言うらしいけど、その意味なんとなく分かる気がするね」
「へぇ、それは無駄知識だな。11へぇだ」
「ありがとうございます」
輝友が笑いながら、オレが放り投げたバックを隅に寄せた。意外と几帳面なところがあるんだ。
体温によって畳と体の間に熱が挟まれないよう、適当に体を転がす。時折頬に畳の冷たい感触が伝わる。気持ちがいい。
「しかしさぁ。ホテルじゃなきゃ風情が出ないよな」
「なんで? 旅館のほうがいいじゃねぇの?」
「だって、枕投げも出来ないしさ。女の子を仮に部屋に呼んでも、なんとなくときめかない感じじゃん」
枕投げはホテルのほうが出来ないと思うが、口にするのは多少なりとも億劫だった。
オレが口を開かないのもお構いなしに、輝友は更に続ける。
「渚って『そういうこと』考えたことある?」
「はぁ?」
突然の言葉にオレは口を濁した。
「由夏ちゃんの裸とか、想像したことある?」
「あるかよ、ボケ」
「ふーん。無いんだ」
輝友は深い笑みをちらつかせる。悪戯っ子のようにキラキラ眩しく輝いた目をしていた。オレは少し目を瞑った。
「陸上やってる子って基本的、胸ちっちゃいじゃん? でも由夏は大分大きいよね。ほら、ティーシャツ一枚の由夏を凝視できるのは同じ陸上部の渚の特権だろ?」
「あんま、興味ないよ」
「へぇ。珍しいんだな」
「お前が変態のだけだよ」
輝友は笑顔を崩さないまま、そういえば、と頷いた。その話題はそこで切るつもりらしい。ありがたい、純粋に思った。
「お前さぁ。ケータイ買おうっていう気ない?」
「ケータイ?」
「いい加減、ピッチじゃ限界があるだろ? ほら、最近のケータイだと音楽が聞けるようなのもあるし、お前が苦手だったメールとかも、大分やりやすくなってるしさ。瑛華とか由夏とか、皆で買おうよ」
話自体はとても魅力的だが、一つ壁があることを輝友は覚えているのだろうか。自然に眉間に力が入っていた。思い出すだけで、ちょっと腹が立つ。
「ウチの親のこと、知ってる?」
ため息混じりにオレが訊いた。
「覚えてるよ、あの頑固オヤジと無気力おばさんだろ?」
輝友が即答する。
「言い方が悪すぎる」
「悪い」
「まぁ、その通りなんだが」
「……なるほど。買ってもらえるはずがない、と?」
念を押すような輝友の声。不思議とガッカリはしてないようだった。その表情は気になったが、否定する余地もなかったため、頷く。
「そういうことだよ」
「あげようか?」
「何を?」
「ウチの姉貴もケータイ買ったんだけど、抽選で一万円割引券があるんだよ。でも、オレはもう買っちゃったってやつでだな」
つい、体が飛び上がる。
「マジで、いいの?」
「そりゃ、いいけど、苦しいっつの。抱きつくな、汗臭…くもないけど。この匂いは8×4だな?」
「そう。やべぇ、マジ嬉しい。持つべきもんは友達だわ」
輝友とは家族ぐるみで付き合ってきたが、まさかこんなことがあるとは。なんだか、胸にじんわりと来るものがあった。
「瑛華なんかは、アイツ金持ちのぼんぼんだからさ」
「そういえば、由夏んちって駄菓子屋だよな」
「そういえば、そうだな」
「金持ちなのか? 駄菓子屋って」
輝友はかぶりを振る。それくらい考えろよといわんばかりの視線だった。
「まぁ、普通に生活は出来ると思うけど、ぼんぼんにはならんわな」
「そりゃそうか」
輝友から体を離す。冷やした体がまた熱くなっていた。
「なぁ。最近由夏って変ったとおもわねぇ?」
「へ?」
不意をつかれた。別にボーっとしてたわけじゃない、輝友の表情が山中で獰猛な一匹狼に出会ったように凍えていたからだ。
これが輝友の表情なのか。心臓に釘でもつきたてられてるような気分だった。
「なんで?」
意味が分からない。由夏は由夏のままだ。近くにいたオレが一番良く分かっている。
考えをそのまま言ってのけると、輝友は安心したように笑顔を浮かべた。
「お前が言うんだから間違えないよな」
「さぁ。オレも実は良くわかんないけど。そういうのがよく分かる……瑛華とかに聞けばいいだろ」
「聞けたら、聞かないよ」
「はぁ? なんで」
輝友は笑顔を崩さないまま言う。
「女の子同士の変化なんつーもんは、お互いにはわかんないもんなんだよ。女の子の変化に敏感なのは、付き合ってる男だろ」
「付き合ってる男?」
「同じようなもんだろ。ほぼ密室に一緒に居てさ。部活になれば七時までずーっと一緒で。噂になってるぞ? もっともオレが流してるんだけど」
彼は勝ち誇ったように親指を立てる。輝友はこういう話が好きなのは知っていたが、本当に嬉しそうだ。
「どうなの? キスとかは済ませた」
「するはずないだろ。由夏とオレだぞ? 第一……」
いや、と輝友が遮る。
「ぱっと見だけど、お似合いじゃんね。由夏は美人だし」
否定は出来ない。悔しいけど、否定はしたくない。
思わず畳に座り込む。恋話は、あまり得意じゃない。きっと苦手だ。
「まぁ、素直なのが渚のいいところだよ」
輝友は相変わらず嬉しそうに、肩を何度か叩いた。
変ってる? 由夏が。「温泉に入ってくる」と、部屋を出た輝友のひょろっとして、表面積が小さい背中を見ながら、頭の中で先ほどの言葉を繰り返す。
アイツはすぐおどけたけど、あの表情は本物だった。何かを恐れるような、実体のない笑み。一瞬、オレはあれが輝友であることすら疑った。
輝友だぞ? 何年も、幼稚園時代から風呂に一緒に入った仲だろうが。
なんでも知ってる。そんなつもりで居た。
「由夏も、そうなのかなぁ」
由夏の表情を思い出す。どうしようもない感情だ。胸が熱くなる。
確かに可愛い、と思ったことがないといえばウソになる。好きじゃないはずがない。
由夏も、ああいう表情をするんだろうか。輝友のことも全て知らない。オレの知ってる由夏はどこまで本当なのか。知ってる由夏さえも、変ってしまうものなのか。変わり行くものなのか。
* * * * *
「考えてみりゃさ、なんで男の部屋に女子が行っちゃいけないの?」
「輝友みたいなやつがたくさん居るからだよ」
野活実行委員の立場から、素早くコメントする。輝友の顔が沈んだ。
「でもさぁ。由夏には会いたいでしょ? 由夏のパジャマ、見たいと思わない?」
「あ、それなら先生達との反省会で見れるから、別にいいよ」
「……見る気ではいるんだな?」
旅館では100人近い藤ヶ浦中の二年生を収容できるような、大きな場所がないため、食事は個室で取ることになっていた。もうじき、食事が運ばれてくるはずだった。
「二人で食事ってのも、ヤダなぁ」
「仕方ないだろ? 人数を上手く合わせるにはオレが犠牲になんなきゃいけなかったんだよ」
「お前が犠牲になるのは構わないけどさぁ。オレまで犠牲にならなきゃいけないとは」
本当にいやなら、オレが頼んだ時にきっぱり断ればいいのだが。断れないのが、輝友だった。これは、間違えない。きっとこれ以上変わらない輝友だ。
「……こっそり由夏のこと呼んでこようよ。二人じゃトランプの一つも出来ないだろ?」
「三人でもどうすんだよ」
「じゃぁ瑛華も呼んで四人か?」
「……誘うならお前が誘えよ。オレが怒られるのはごめんだ」
「おっけ。じゃぁ誘っとくわ」
輝友が依然張り切るのを横目に、オレはペンケースやファイルを持って部屋を出た。自主研修の反省会が先生を含んで行われるのだった。
反省会自体はそんなに時間が掛かるものではなかった。先生も、早く美味い酒が飲みたいのか、説教らしきものは見当たらない。先生としてではなく、人間としての意思が強く働いているようだった。
少しスキップ調に、ほとんどの先生が外に出ていく。そのなかで戸田先生だけは生徒の中に残っていた。
早く休みたいのは生徒としても一緒で、戸田先生が残ったことで小言を言われるかもしれないと思ったらしい。少しむっとしたように、眉間にしわがよっていた。もっとも戸田先生が小言をいえるとも思わないが。
「渚、ちょっと話が」
「え、はい」
「由夏も、少し残って。あとは帰っていいぞ?」
軽く哀れむような視線を残して、彼らは部屋から出て行った。
「先生は飲みにいかなくていいんですか?」
オレが笑いながら言った。傍らの由夏も意味を悟ったのか、頬を緩ませている。
「オレは酒がどうも苦手なんでな。って、なんでお前らがそのこと知ってるんだよ」
「職員室に遊びに言ったとき、不意に聞いたんです」
そうか、と戸田先生も笑う。
「それでさ。少し話したいことがあって」
「なんですか?」
由夏が訊いた。確実に説教ではないな。確信が持てる。オレも、彼とは一年ずっと付き合っているが、根が穏やかであるのはよく知っていたし、何よりもすでに流れている空気を打ち破ってまで大声を張り上げる人ではなかった。
「いやね、暇なら少し付き合ってもらいたいと思ってさ」
「先生にですか?」
由夏があまりにも露骨に嫌悪をむき出しにするので、先生は少し凹んだようだったが、とがめる様子はない。
「あんま良くないことなんだけどね」
「なんです?」
「見回りなんてもんは、要するに下っ端がやることになってんだよ」
「下っ端?」
由夏が唐突に笑う。無理もなかった。オレも、先生がこんな物悲しげな表情を浮かべてさえ居なければきっと笑っただろう。彼の口調に「下っ端」という言葉、異様なくらいにマッチしていた。
「んで、今日はきっと皆酔いつぶれちゃうからさ。ほら、今年の二年生は老輩の先生方が多いから……」
先生の声は止まった。これ以上は言う必要がなかった。
「手伝ってくれと?」
先生はオレ達の前で、手を合わせた。パンッと乾いた音がした。
「お願いっ!」
由夏と顔を見合わせる。由夏はちょっと嬉しそうに頬を緩ませている。素直な子だ。気分を害せば害したなりの表情をして、嬉しければそれ相応に嬉しそうな顔をする。その表情がかわいいのだった。
変わってるって? それはねぇよ。この由夏だぞ? お前が思ってるよりずっと頑固者なんだ。たとえ変わってたとしても、輝友の恐れるような方向には絶対変わらない。
「見回りっていつからです?」
「大体生徒が夜騒ぎそうな時間帯ってのは、11時ごろなんだよ」
「じゃぁ、そこからですか」
「でもガキだからな。疲れれば、起きてられないだろ。だから大体1時くらいまで出来れば……」
「付き合いますよ」
輝友には悪いと思いながら、由夏としばらく一緒に歩くのも悪くないな、そう思った。
廊下のところどころ設置されている獅子落とし。沈黙ではない静寂を作っていた。その中で、よく耳を澄ますと、部屋のところどころでヒソヒソ話が聞こえる。どの組の女の子がどうだとか、大体そんな話だ。人は眠くなると大っぴらになる。
「もうじき新人戦だね」
由夏は色素の薄く、栗色にも見える髪を手櫛で撫でる。由夏なら、きっと新人大会にも出てくる。注意してみれば、彼女の実力はしっかり分かる。彼女のイメージががり勉ではなくなる日もきっと近いだろうと思う。高飛びの記録だけ見れば、県大会の上位に混ぜても全然おかしくない。
「由夏も出るよな?」
「うん」
「自信あるか?」
彼女は首を捻った。だが、自信がないわけではないだろう。
「自己ベストだよ。ほら、前もいったじゃん」
「『勝つより自己ベスト』ってね。由夏らしい、マイペースだよな。由夏はそのままでいいんだと思うよ」
「私らしいってのはマイペースなの? 私そんなにのんびりしてる?」
そういう意味じゃないと、オレが言った。
でも、いざ目の前の当人に説明しようとなると言葉がないことに気づく。周りが見えてないわけじゃない、浮いているというわけでもないだろう。ただ、彼女は普通の女の子ではない。彼女のペースが彼女自身の体の中に組み込まれている。人に合わせることは出来ない。
「答えないってのはダメか?」
「……まぁ、いいけど」
言葉では示しがつかなかった。心の中ではなんとなく分かってるものなのに、実体として言葉で表しがつかない。
オレは結局答えられなかった。
「夏なのに、秋だよね」
「よく意味がわかんないぞ?」
「いや、ね。こんな暑いのに、九月だって。時が経つのは早いよ。あっという間に、受験生になってるんだろうね」
少し意外だった。由夏らしくない、とも一瞬だけ思った。
どんな時でも、自分に素直なのが由夏だ。周りに流されないのが由夏だ。受験という言葉が由夏から出てくるなんて、思いもしなかった。
獅子落としが乾いた音を立てた。
確かに、夏はもうそろそろ終わろうとしているようだった。
2006/07/14(金)
「聞いてたよ。強行出場するって」
いよいよ大詰めを迎えた実行委員。その作業中に、由夏は無駄なものを一切排除した口調で言った。オレは、作業を続ける。
「ハンカチ、返そうと思ったの。それで一旦戻ったんだよ」
「なるほどね、そこで聞いたんだ」
「……その後の瑛華ちゃん、ずーっと怒ってたんだから」
「アイツはいつも怒ってるだろう」
オレは軽い冗談のつもりだったのだが、彼女はそうとは受け取ってくれなかったようだった。さっきまでずっとは知らせていたシャープペンを指から放して、さりげない動作でオレを見た。
化け物でも見るような表情だった。
「『なんであのバカを行かせてしまったんだろう』って、泣いてたんだよ?」
「泣いたって、あの瑛華が?」
思わず言葉を濁す。オレのシャープペンが止まった。
「『無茶するアホを止めるのは私の役目なのに』ってね」
由夏の口調に恐ろしく棘が含まれていることに気づいてはいたが、無視するつもりだった。それでもオレは、作業を続ける。
「私が絶対許さないからね。友達を泣かせるような渚なんて、絶対許さない」
オレはペンを置かず、由夏を見上げる。いつしか由夏は立ち上がっていた。
「絶対、だよ!」
この声が、外に漏れたのではないかと少し心配になったが、どうやら外に人はいないようだった。
この様子なら、少しくらい怒鳴りあいになっても、大丈夫かな。変な計算を頭の中で進めながら、同時に気づいた。由夏が回りの女の子と少し違って見える要素はここなんだ、と。友達のためなら、自分の評価が下がることも辞さない。明らかに異質なんだ。
「私のできることなら、何でもするよ。走んないで」
「イヤだ」
由夏の視線がオレの背中に突き刺さるようで、空気は思ったより深刻であると感じたが、オレはまだ全然冷静だった。
「渚は何のために走るの?」
「その質問は瑛華からもされたけどさ。道があるから走るんだよ」
「それが正しくない道だとしても?」
由夏が荒々しく腰を落とした。その反動で、机が揺れて、ペンが床に落ちる。
「人は道があるから走るんじゃないでしょ。遠くに指標があるから走るんだよ。渚にはそれがない」
「あるさ」
「ないよ。だって、そんな信念を持った人間が、プレッシャーに押し潰されることはないんだから――結果じゃないの。結果よりも自己ベストなの! 自分が出来る最高の行動、働き。それは出場することが全てじゃないでしょうが。渚にある自己ベストは、ここは出場せずに、来年頑張ることでしょう?」
しばらくオレは、彼女と正面向いて、にらめ合いを続けていたが、やがて耐え切れなくなって、オレは腰を下ろした。
……友達のため、か。
ため息をつくついでに、くだらないことを考えた。瑛華が傷ついたから怒ってるんだろうか。それとも同じ走者として、オレのことを案じてくれてるんだろうか。それとも純粋にオレのことを心配して、声を荒げてくれているんだろうか。いずれでもいい、はずがない。
「ごめん、考えさせてよ」
「渚が頷くまで私はずっとここに居るからね」
由夏はキッパリと言った。
「おっ! 喧嘩は終わったか?」
戸田先生は、静寂が流れようとするタイミングを見計らったように、素早く、大きなドアの音を立てて、教室に入ってきた。先生は何かを勘違いしたのかもしれない、優しげな笑顔を浮かべていた。
由夏の厳しい顔を見れば、そんな笑顔も消えるだろう。
そんなオレの予想は外れていた。先生は彼女の顔を見ても尚、笑顔を崩さない。
「言っとくけど、オレはお前の足の状態に気づかないほど、鈍感じゃないぞ? それとも、お前隠しとおせるとでも思ったか? 甘いな」
先生の言葉は鋭利な針を一つ一つ刺していくような、所途切れで、どこか鋭い雰囲気を孕んでいた。
「分かってたんですか?」
「由夏が止めてくれることまでは予想外だったが」
彼は少し由夏と視線を合わせると、更に続けた。由夏の顔は相変わらず口をギュッと引き締めて、険しい顔をしている。
「どうだろうな、渚。由夏が大声を張り上げるなんて相当の出来事だぞ?」
「聞いてたんですか?」
先生は頷く。気づかなかったようだが、と気障に付け加えた。
「全部聞いてた。結論から言わせてもらえれば……」
「分かるでしょう? 考えさせてください」
「ダメだよ」
戸田先生が目を細めた。
「お前が考えても考えなくても、オレはお前を出さない。結論からすれば由夏のが正論だからな。正しい意見に従う必要がある」
「……でも」
由夏の手前、泣くわけには行かないはずだったのだが、自分の声はすでに震えていた。
「カッコつけるなよ。怪我をしながらでも、走ればカッコいいとでも思ってるのか?」
慌てて部屋から飛び出て、廊下を走り抜けて、彼らから離れると、頬から一滴、涙が滴れ落ちて、落ちた。
ふざけるなよ。オレがカッコつけてる? 走ればカッコいいと思ってる?
どうすることも出来ない、敗北感に近い異様な悔しさだった。この感情が、由夏に対するものなのか、先生に対するものなのかは分からなかったが、答えを出そうとは思わなかった。そんなことはどうでもいい。
誰も居ない廊下を駆け抜けて、アスファルトを蹴って、気づけば瑛華の声が耳についた。
「……どうした? そんな苛立った表情で」
「瑛華には関係ないだろ?」
瑛華はオレを見下してる。なんでだ? 皆、自分ばっかり偉いと思ってるんだ。
「渚。子供みたいだよ?」
「なんだって?」
「落ち着きなよ。最近、めっきり生活が落ち着いてきたなと思ったら、まだまだじゃんね」
「うるせぇな」
「……今日、ウチに来ない?」
瑛華が部屋に招き入れてくれると、さっきから酷使しっぱなしだった呼吸が、ようやくペースを戻そうと抵抗し始めて、胸がどんどん苦なって、ついに何も言えなくなった。それでも感情は爆発したままで、ついでに、全力疾走の代価である足の違和感も強く出てきて、体がパンクするのではないかと思うくらいに。
「はい、水」
彼女に差し出されたまま水を飲むと少しだけ、感情が静まるのを感じた。それでも、心臓は激しく動いていたから、鼓動音だけが体に響いていた。
「渚さ。ガキんちょのときは、しょっちゅう私の胸で泣いたんだよね」
オレが首を振る。口をあける。しかし、声は出ない。口は呼吸を取り戻そうと必死で、声まで出す余裕はなかった。
瑛華は意味も無く微笑む。
「覚えてる? 幼稚園の徒競走で初めて負けたとき。見事に転んじゃって――そんな渚がさ、最近は女の子に急にもてだして、さ。話を聞いたときはびびったんだぞ? その子に渚の何が好きなのって聞いたら『クールなところ』って」
オレの視線が落ちていることに気がつく。出された湯のみのなかで微妙に広がる波紋が視界の大半を占めていた。
「でも、冷静に考えりゃさ。私の渚のイメージの殆どは小さい頃から出来上がってるものだからさ。確かに最近の渚を見てると、そうかもしれないとも思ったんだ。走ってるときの顔は確かにカッコいいよ」
オレは驚くわけでもなく視線をあける。この瑛華がこれだけオレを褒めてるのだから、身を挺してまで驚いていいはずなのだが。
……いや違う。きっと違う。もっと違うんだ。
相変わらずうるさい心臓を押さえつけるように、オレは胸に手をやる。
「何年ぶりだっけかー? 渚と二人っきりなんて」
彼女はふんだんに色っぽい声で言った。残念ながら、ドキドキするどころか、心臓の勢いが急に止まってしまったのだが。
お陰でようやく声が出るようになった。
「その声、わざとか?」
「へへ。たまにはそういうこともいいかな、と思って。止まるあたりが渚らしいね。そういうとこは変ってないよ」
「瑛華の色仕掛けは、なんとなく違和感があるな」
「そうかなー、これでも医者目指してるのよ?」
「全然関係ないだろ」
オレが素直に告げると、予想してたようにあっさりとした口調で彼女は軽く笑った。
気づくとオレの熱い感情は殆ど消えていた。家に飛び込んだ時は相当熱されていた苛立ちが、今となっては何年もたって見つかった風船のようにひどくしぼんで、どうでもいいほど小さくなっている。
「大丈夫だよ。本気じゃない」
「分かってる分かってる。お前のお陰で随分落ち着きましたー、ありがとうございます」
間延びした声は瑛華へのせめてものあてつけだった。瑛華はもちろん気にする様子はない。
瑛華は一つ息をついた。
「これで落ち着くっていうことはね。渚の爆発なんて大したことないってことなんだよ、誤解を恐れずに言うなら。渚には本気で人は憎めないし、悔しさだけで動ける人間じゃない」
「それは褒めてるの?」
「信じてるんだよ。渚はそういう人じゃないから」
心がじんわりと温まるのを感じた。
瑛華はいつの間にこんな女子になったんだろう。瑛華と同じで、オレの彼女へのイメージは確かに幼いときに完成したものだが、それにしてもおかしい。
格段に瑛華はいい感じになってきた。
「オレさ……」
たまらず、オレが口を開こうとすると、瑛華はそれを静かに止めて、笑顔を作った。
「本当に気にしないで? 渚は渚で出ればいいんだよ。私のことは本当にどうでもいいんだから」
笑顔を浮かべているはずなのに、一瞬だけ彼女が泣いているように見えた。もちろんそれは錯覚で、彼女は軽やかな笑顔を浮かべている。
結局、瑛華に全てを吐き出すつもりが、何も吐き出せなかった。だって、彼女は十分にオレを背負ってくれていたのだから。
* * * * *
由夏はそれ以来一言も喋ってはくれなかった。無視とは少し違う。必要なことは喋るのだが、会話を成立させようという気がないらしい。
怒っているということは、背中を見ればすぐに分かった。が、かける言葉が見つからない。
そんな気まずい状況で、彼女と二人きりの空間は苦痛以外の何者でもなかった。
それに耐え切れなくなった大会前日。戸田先生がオレを呼び出した。あれ以来。先生とも会話を交わしていない。
「分かってたんだよ。渚」
その言葉は、この前オレに辞退を強要した口調つながって、心の奥底がピクリと反応するのを感じた。
「足の状態のことですか?」
悪いとも思っていたが、鬱陶しくも感じていたオレの口調はいつになく鋭く黒光りしていた。
「違う。お前ならその足の状態で大会に出ても、絶対優勝できるってこと。言いたくはないが、お前の実力はそれくらいでちょうどいいくらいだってことは知ってる。あーあ、たった今オレは教師として言っちゃいけないことを口走ってしまったよ」
その割りに、後悔する様子はない。
「だからなんだっていうんですか?」
しかし、オレの鋭い口調に一瞥もくれず、彼は笑った。今まで対等な位置に居ると思っていた彼が、今日はやけに高い位置に立っているように見える。
気のせいだった、そう思いたい。
「なんでオレはお前を出さなかったんだと思う?」
「分かりません」
「多野瑛華も藤谷輝友もやさしいな。二人とも、勝手にすればいいんですよ! なーんて完全に怒ってたように見えたのに、アイツらは諦めなかったんだよ。彼はどうやったらお前に諦めてもらえるか、ずっと頭悩ませてたし、彼女も彼女でオレに強く訴え続けてくるんだもの」
そういえば、由夏も同じことを言っていたことを思い出す。
「フルネームということは、話したことはあまりないんですね?」
「そうだ。多野瑛華は単なる優等生に見えてたんだが、イメージ思い切り崩されたよ」
人の名前をフルネームで呼ぶのは、彼とその人の間に、一定の距離があることを意味している。ということは、二人と彼はあまり親しくはない。それほどの関係はないのだろう。だからこそ、二人の行動には大きく意味が生まれるのだ。彼はそう言いたげにオレへ視線を投げかけた。
「そうすると、どうしても彼らを無視するわけにはいかないんでな。少し迷っていたところに、由夏の大声が聞こえた。彼女が大声を出すなんて、相当のことだろう? もうここまで来ると、オレの心は決まってね」
先生が大人に見えたんじゃない。オレが子供だったんだ――
後悔は岸に押し上げる波のように大きく、強く押し寄せて、行動に移るまでに時間は掛からなかった。
『子供みたいだよ?』
瑛華の言葉を思い出す。体が熱くなる。
「結局、オレが悪かったんだろうな」
帰りの準備をしている由夏を資料室に呼び出すと、涙が出てきそうになった。
『ゴメン、オレがバカだったよ。心配かけて悪かった』
一言告げるのに、掛かった時間はバカにならなかった。秒針が忙しく動く音がやけに耳につく空間で、待たされる由夏。
いざ言ってみると、さっきまで経過した時間は一体なんだったんだろうと思うほど、その作業はシンプルだった。いつの間にか下がっていた視線を上げると、彼女の顔がすぐそばにあった。実行委員で毎日あわせてたはずなのの彼女の顔がとても新鮮に見えたのは、多分オレが彼女の顔を見れてなかったってことなんだろう。
「もう一回聞くけど、渚って何のために走るの?」
彼女から、この質問は二度目になる。
オレが答えられずにいると、彼女は少し誇らしげに天井を見つめて口元を緩めた。
「私は思うんだ。プレッシャーとか、そんなもん全力で走ってれば感じないんだよ。すごいスピードで走ってれば、不要なものは振り払われるから」
「そう……だよな」
「ねぇ、約束してくれる?」
「なにを?」
由夏はいきなり厳しい顔をして、笑った。
「次は一緒に東北大会まで行くってこと」
「約束するよ」
「本当に?」
「本当の本当に! 絶対!」
不思議な幸福感に包まれながら、これが青春なのかと思って、少し気恥ずかしくなった。
けれど、こういうのも……少しくらい、いいものかな、とも思った。
いよいよ大詰めを迎えた実行委員。その作業中に、由夏は無駄なものを一切排除した口調で言った。オレは、作業を続ける。
「ハンカチ、返そうと思ったの。それで一旦戻ったんだよ」
「なるほどね、そこで聞いたんだ」
「……その後の瑛華ちゃん、ずーっと怒ってたんだから」
「アイツはいつも怒ってるだろう」
オレは軽い冗談のつもりだったのだが、彼女はそうとは受け取ってくれなかったようだった。さっきまでずっとは知らせていたシャープペンを指から放して、さりげない動作でオレを見た。
化け物でも見るような表情だった。
「『なんであのバカを行かせてしまったんだろう』って、泣いてたんだよ?」
「泣いたって、あの瑛華が?」
思わず言葉を濁す。オレのシャープペンが止まった。
「『無茶するアホを止めるのは私の役目なのに』ってね」
由夏の口調に恐ろしく棘が含まれていることに気づいてはいたが、無視するつもりだった。それでもオレは、作業を続ける。
「私が絶対許さないからね。友達を泣かせるような渚なんて、絶対許さない」
オレはペンを置かず、由夏を見上げる。いつしか由夏は立ち上がっていた。
「絶対、だよ!」
この声が、外に漏れたのではないかと少し心配になったが、どうやら外に人はいないようだった。
この様子なら、少しくらい怒鳴りあいになっても、大丈夫かな。変な計算を頭の中で進めながら、同時に気づいた。由夏が回りの女の子と少し違って見える要素はここなんだ、と。友達のためなら、自分の評価が下がることも辞さない。明らかに異質なんだ。
「私のできることなら、何でもするよ。走んないで」
「イヤだ」
由夏の視線がオレの背中に突き刺さるようで、空気は思ったより深刻であると感じたが、オレはまだ全然冷静だった。
「渚は何のために走るの?」
「その質問は瑛華からもされたけどさ。道があるから走るんだよ」
「それが正しくない道だとしても?」
由夏が荒々しく腰を落とした。その反動で、机が揺れて、ペンが床に落ちる。
「人は道があるから走るんじゃないでしょ。遠くに指標があるから走るんだよ。渚にはそれがない」
「あるさ」
「ないよ。だって、そんな信念を持った人間が、プレッシャーに押し潰されることはないんだから――結果じゃないの。結果よりも自己ベストなの! 自分が出来る最高の行動、働き。それは出場することが全てじゃないでしょうが。渚にある自己ベストは、ここは出場せずに、来年頑張ることでしょう?」
しばらくオレは、彼女と正面向いて、にらめ合いを続けていたが、やがて耐え切れなくなって、オレは腰を下ろした。
……友達のため、か。
ため息をつくついでに、くだらないことを考えた。瑛華が傷ついたから怒ってるんだろうか。それとも同じ走者として、オレのことを案じてくれてるんだろうか。それとも純粋にオレのことを心配して、声を荒げてくれているんだろうか。いずれでもいい、はずがない。
「ごめん、考えさせてよ」
「渚が頷くまで私はずっとここに居るからね」
由夏はキッパリと言った。
「おっ! 喧嘩は終わったか?」
戸田先生は、静寂が流れようとするタイミングを見計らったように、素早く、大きなドアの音を立てて、教室に入ってきた。先生は何かを勘違いしたのかもしれない、優しげな笑顔を浮かべていた。
由夏の厳しい顔を見れば、そんな笑顔も消えるだろう。
そんなオレの予想は外れていた。先生は彼女の顔を見ても尚、笑顔を崩さない。
「言っとくけど、オレはお前の足の状態に気づかないほど、鈍感じゃないぞ? それとも、お前隠しとおせるとでも思ったか? 甘いな」
先生の言葉は鋭利な針を一つ一つ刺していくような、所途切れで、どこか鋭い雰囲気を孕んでいた。
「分かってたんですか?」
「由夏が止めてくれることまでは予想外だったが」
彼は少し由夏と視線を合わせると、更に続けた。由夏の顔は相変わらず口をギュッと引き締めて、険しい顔をしている。
「どうだろうな、渚。由夏が大声を張り上げるなんて相当の出来事だぞ?」
「聞いてたんですか?」
先生は頷く。気づかなかったようだが、と気障に付け加えた。
「全部聞いてた。結論から言わせてもらえれば……」
「分かるでしょう? 考えさせてください」
「ダメだよ」
戸田先生が目を細めた。
「お前が考えても考えなくても、オレはお前を出さない。結論からすれば由夏のが正論だからな。正しい意見に従う必要がある」
「……でも」
由夏の手前、泣くわけには行かないはずだったのだが、自分の声はすでに震えていた。
「カッコつけるなよ。怪我をしながらでも、走ればカッコいいとでも思ってるのか?」
慌てて部屋から飛び出て、廊下を走り抜けて、彼らから離れると、頬から一滴、涙が滴れ落ちて、落ちた。
ふざけるなよ。オレがカッコつけてる? 走ればカッコいいと思ってる?
どうすることも出来ない、敗北感に近い異様な悔しさだった。この感情が、由夏に対するものなのか、先生に対するものなのかは分からなかったが、答えを出そうとは思わなかった。そんなことはどうでもいい。
誰も居ない廊下を駆け抜けて、アスファルトを蹴って、気づけば瑛華の声が耳についた。
「……どうした? そんな苛立った表情で」
「瑛華には関係ないだろ?」
瑛華はオレを見下してる。なんでだ? 皆、自分ばっかり偉いと思ってるんだ。
「渚。子供みたいだよ?」
「なんだって?」
「落ち着きなよ。最近、めっきり生活が落ち着いてきたなと思ったら、まだまだじゃんね」
「うるせぇな」
「……今日、ウチに来ない?」
瑛華が部屋に招き入れてくれると、さっきから酷使しっぱなしだった呼吸が、ようやくペースを戻そうと抵抗し始めて、胸がどんどん苦なって、ついに何も言えなくなった。それでも感情は爆発したままで、ついでに、全力疾走の代価である足の違和感も強く出てきて、体がパンクするのではないかと思うくらいに。
「はい、水」
彼女に差し出されたまま水を飲むと少しだけ、感情が静まるのを感じた。それでも、心臓は激しく動いていたから、鼓動音だけが体に響いていた。
「渚さ。ガキんちょのときは、しょっちゅう私の胸で泣いたんだよね」
オレが首を振る。口をあける。しかし、声は出ない。口は呼吸を取り戻そうと必死で、声まで出す余裕はなかった。
瑛華は意味も無く微笑む。
「覚えてる? 幼稚園の徒競走で初めて負けたとき。見事に転んじゃって――そんな渚がさ、最近は女の子に急にもてだして、さ。話を聞いたときはびびったんだぞ? その子に渚の何が好きなのって聞いたら『クールなところ』って」
オレの視線が落ちていることに気がつく。出された湯のみのなかで微妙に広がる波紋が視界の大半を占めていた。
「でも、冷静に考えりゃさ。私の渚のイメージの殆どは小さい頃から出来上がってるものだからさ。確かに最近の渚を見てると、そうかもしれないとも思ったんだ。走ってるときの顔は確かにカッコいいよ」
オレは驚くわけでもなく視線をあける。この瑛華がこれだけオレを褒めてるのだから、身を挺してまで驚いていいはずなのだが。
……いや違う。きっと違う。もっと違うんだ。
相変わらずうるさい心臓を押さえつけるように、オレは胸に手をやる。
「何年ぶりだっけかー? 渚と二人っきりなんて」
彼女はふんだんに色っぽい声で言った。残念ながら、ドキドキするどころか、心臓の勢いが急に止まってしまったのだが。
お陰でようやく声が出るようになった。
「その声、わざとか?」
「へへ。たまにはそういうこともいいかな、と思って。止まるあたりが渚らしいね。そういうとこは変ってないよ」
「瑛華の色仕掛けは、なんとなく違和感があるな」
「そうかなー、これでも医者目指してるのよ?」
「全然関係ないだろ」
オレが素直に告げると、予想してたようにあっさりとした口調で彼女は軽く笑った。
気づくとオレの熱い感情は殆ど消えていた。家に飛び込んだ時は相当熱されていた苛立ちが、今となっては何年もたって見つかった風船のようにひどくしぼんで、どうでもいいほど小さくなっている。
「大丈夫だよ。本気じゃない」
「分かってる分かってる。お前のお陰で随分落ち着きましたー、ありがとうございます」
間延びした声は瑛華へのせめてものあてつけだった。瑛華はもちろん気にする様子はない。
瑛華は一つ息をついた。
「これで落ち着くっていうことはね。渚の爆発なんて大したことないってことなんだよ、誤解を恐れずに言うなら。渚には本気で人は憎めないし、悔しさだけで動ける人間じゃない」
「それは褒めてるの?」
「信じてるんだよ。渚はそういう人じゃないから」
心がじんわりと温まるのを感じた。
瑛華はいつの間にこんな女子になったんだろう。瑛華と同じで、オレの彼女へのイメージは確かに幼いときに完成したものだが、それにしてもおかしい。
格段に瑛華はいい感じになってきた。
「オレさ……」
たまらず、オレが口を開こうとすると、瑛華はそれを静かに止めて、笑顔を作った。
「本当に気にしないで? 渚は渚で出ればいいんだよ。私のことは本当にどうでもいいんだから」
笑顔を浮かべているはずなのに、一瞬だけ彼女が泣いているように見えた。もちろんそれは錯覚で、彼女は軽やかな笑顔を浮かべている。
結局、瑛華に全てを吐き出すつもりが、何も吐き出せなかった。だって、彼女は十分にオレを背負ってくれていたのだから。
* * * * *
由夏はそれ以来一言も喋ってはくれなかった。無視とは少し違う。必要なことは喋るのだが、会話を成立させようという気がないらしい。
怒っているということは、背中を見ればすぐに分かった。が、かける言葉が見つからない。
そんな気まずい状況で、彼女と二人きりの空間は苦痛以外の何者でもなかった。
それに耐え切れなくなった大会前日。戸田先生がオレを呼び出した。あれ以来。先生とも会話を交わしていない。
「分かってたんだよ。渚」
その言葉は、この前オレに辞退を強要した口調つながって、心の奥底がピクリと反応するのを感じた。
「足の状態のことですか?」
悪いとも思っていたが、鬱陶しくも感じていたオレの口調はいつになく鋭く黒光りしていた。
「違う。お前ならその足の状態で大会に出ても、絶対優勝できるってこと。言いたくはないが、お前の実力はそれくらいでちょうどいいくらいだってことは知ってる。あーあ、たった今オレは教師として言っちゃいけないことを口走ってしまったよ」
その割りに、後悔する様子はない。
「だからなんだっていうんですか?」
しかし、オレの鋭い口調に一瞥もくれず、彼は笑った。今まで対等な位置に居ると思っていた彼が、今日はやけに高い位置に立っているように見える。
気のせいだった、そう思いたい。
「なんでオレはお前を出さなかったんだと思う?」
「分かりません」
「多野瑛華も藤谷輝友もやさしいな。二人とも、勝手にすればいいんですよ! なーんて完全に怒ってたように見えたのに、アイツらは諦めなかったんだよ。彼はどうやったらお前に諦めてもらえるか、ずっと頭悩ませてたし、彼女も彼女でオレに強く訴え続けてくるんだもの」
そういえば、由夏も同じことを言っていたことを思い出す。
「フルネームということは、話したことはあまりないんですね?」
「そうだ。多野瑛華は単なる優等生に見えてたんだが、イメージ思い切り崩されたよ」
人の名前をフルネームで呼ぶのは、彼とその人の間に、一定の距離があることを意味している。ということは、二人と彼はあまり親しくはない。それほどの関係はないのだろう。だからこそ、二人の行動には大きく意味が生まれるのだ。彼はそう言いたげにオレへ視線を投げかけた。
「そうすると、どうしても彼らを無視するわけにはいかないんでな。少し迷っていたところに、由夏の大声が聞こえた。彼女が大声を出すなんて、相当のことだろう? もうここまで来ると、オレの心は決まってね」
先生が大人に見えたんじゃない。オレが子供だったんだ――
後悔は岸に押し上げる波のように大きく、強く押し寄せて、行動に移るまでに時間は掛からなかった。
『子供みたいだよ?』
瑛華の言葉を思い出す。体が熱くなる。
「結局、オレが悪かったんだろうな」
帰りの準備をしている由夏を資料室に呼び出すと、涙が出てきそうになった。
『ゴメン、オレがバカだったよ。心配かけて悪かった』
一言告げるのに、掛かった時間はバカにならなかった。秒針が忙しく動く音がやけに耳につく空間で、待たされる由夏。
いざ言ってみると、さっきまで経過した時間は一体なんだったんだろうと思うほど、その作業はシンプルだった。いつの間にか下がっていた視線を上げると、彼女の顔がすぐそばにあった。実行委員で毎日あわせてたはずなのの彼女の顔がとても新鮮に見えたのは、多分オレが彼女の顔を見れてなかったってことなんだろう。
「もう一回聞くけど、渚って何のために走るの?」
彼女から、この質問は二度目になる。
オレが答えられずにいると、彼女は少し誇らしげに天井を見つめて口元を緩めた。
「私は思うんだ。プレッシャーとか、そんなもん全力で走ってれば感じないんだよ。すごいスピードで走ってれば、不要なものは振り払われるから」
「そう……だよな」
「ねぇ、約束してくれる?」
「なにを?」
由夏はいきなり厳しい顔をして、笑った。
「次は一緒に東北大会まで行くってこと」
「約束するよ」
「本当に?」
「本当の本当に! 絶対!」
不思議な幸福感に包まれながら、これが青春なのかと思って、少し気恥ずかしくなった。
けれど、こういうのも……少しくらい、いいものかな、とも思った。
2006/07/09(日)
「多岐公園のベンチ前ね」
いつの日だか、顔も良く知らないような女子に誘われたことがあった。あのときは、練習が入っていたので丁重に断ったはずだが、それ以来やけに気まずかったのを覚えている。そういえば、それ以来だ。
朝起きると、六時だった。
待ち合わせの時間までまだまだ余裕だと言うのに、目が冴える。人間、楽しみなことがあると、すぐに目が覚めるというけど、オレが例外でなく当てはまるというのは、少し悔しかった。
体を動かそうと思った。瞼も羽のように軽かった。軽く汗を流したい。今は気軽に走れるような状況じゃない。足は確かに重いけど、運動をサボった数日後の体の重さは嫌いだ。
「足を使わず、運動できるものか」
上半身のみでやれるようなスポーツというと……投げるスポーツ。投げるスポーツとなると、キャッチボールか。
キャッチボール程度の動きならば足を痛めることもないだろう。
しかし、相手が居ない。
妹を早朝に起して相手というのも悪いし。
足を使わず気軽に一人で出来てしまう運動。考えても考えても見つからず、何をするわけでもなく、家を出た。湿気で歪んだ空気が頬とすれ違う。
朝飯を作って、身支度を終えると、時針はちょうど「9」をさしていた。多岐公園で十分程度、何して過ごそうか。
ウォーキングで汗を流すのは嫌いではなかった。もともとランニングで完走しきるだけの体力もない。
そういえば、逆に由夏は長距離が得意だった。由夏は走り高飛びの選手で145cmは安定して飛んでくる。脚力が飛びぬけてるわけではないが、しっかりと結果を出してくる辺り、フォームに一縷の無駄もないのだろう。難しいことまで知らないが、彼女なりの努力の成果なんだろうな。きっと。
「兄貴、仙台に出るんでしょ? だったら買ってきて欲しい本があるんだけど」
「なんだ? お前が本なんて珍しい」
オレが言うと、妹の和海は頬をむっと膨らませた。これ以上何か言うと、喧嘩に発展しそうだったので、オレはこれ以上を自粛し、彼女の頼みだという「ハリーポッターと賢者の石」を、紙にメモして、ジーパンのポケットに入れた。
時間もあるので、待ち合わせ前に書店に向かうことにした。大双葉書店は八時から営業していたはずだ。
店内に入ると、さすがに色々な本が並んでいた。本を見つけるのに、時間はかからなかった。PHSの時計を見ると、まだ九時二十分。時間を潰す予定だったが、まだ時間に余裕はある。
時間を潰すものはあるかと、店内を見渡していると、奥のほうにCDなんかも置いてあることに気づく。これなら、時間をもてあますようなことも無いだろう。もう少しばかり店内を探索しようと、視界を回す。すると、朝方ただでさえ少ない客影の最たるところに一人、あまりにも背景にマッチしない、青いジャージを着た少女がいた。髪の長さから考えるに、女子。良く見ると、藤ヶ浦中のジャージだった。
誰だ?
不自然にならない程度の歩調で本棚に歩み寄り、その彼女に近づいてみる。と、見覚えのある横顔があった。
顔には薄く汗が滲んでいた。走ってきたらしい。ジャージが適度に崩されていた。
頬が緩む。大きく息を吸う。
「由夏ー!」
「きゃっ」
予想外の反応だったが、彼女の低い声は悲鳴になりそうでならなかった。静かな店内でもこの声なら響くまい。とっさの安全勘定だった。
彼女の手から一冊の本がすべり落ちる。由夏がさっきまで読んでいた本だ。
オレを由夏を見つめる、彼女の目の焦点が一向に合いそうにないことは少し気になったが、とりあえず商品を床に落としたままにするわけにいかないので、オレが拾おうとする。と、由夏が我に返ったように、慌てて制止する。「やめて」強い語調だった。そのとき一瞬見えた。ハードカバーで、掛かっている帯には「本当に、100人の友達を作る方法!」なんていうじれったい文句が謳われている。
(100人?)
由夏はようやく自分からオレを見ようとした。目にはいつもの輝きが戻る。しかし、うろたえているのは明らかだった。
どう考えても、あまり隠すような本には見えないが、何か理由でもあるのかもしれないな。なるべく本の表紙を見ないように本を拾い、彼女の手に戻すと、ぎこちないながら笑顔が戻っていた。
「ありがと」
「いえ、どういたしまして」
彼女はオレとの視線を繋いだままに、本についたほこりを取る意味で何度か本の表紙を叩き、棚に戻した。
「なんで渚がここに?」
「暇つぶし」
彼女の顔がいつに無く不安に満ちているのが関係するのかどうか分からないが、今日はとりわけ女の子らしい。良く見ると今日はいつも下ろしている後ろ髪を一つ結っている。ただ――
「なんで、ジャージなの?」
「いや……そのほかに服がなくてさ」
「本当に、それで仙台に出る自信がある?」
「……ダメかな?」
「ダメだよ!」
ふっとため息が出る。由夏が「ベン」と呼ばれるわけ。なんとなく分かった。明らかに若者としての常識が欠如しているのだ。
由夏という人をまともに知っている人間なら、少し考えて、こういうところも、由夏の魅力だと捕らえることも出来る。でも、まともに知らなかったら、あまり好かれる性格ではないだろうということは分かった。
「今からでも遅くないから、着替えてきなよ」
由夏は少し目をパチクリさせる。
「そうだね、着替えてくるよ」
さっきまでの由夏の様子が変だったから、少し心配したけれど、あまりそんなことはなさそうだった。少なくても本を戻したときからはいつもの由夏だった。
どういうことだろう。
もしかして、由夏はそういうことで実は悩んでるんじゃないか? オレが知らないだけで、もしかしたら。
(考えすぎか?)
由夏が足早に本屋から去っていくのを遠目、不思議な思いは何度も行ったり来たりしていた。
前日に切った啖呵の影響で、輝友とはやや付き合いにくいだろうと思っていたが、案外空気の修復には時間が掛からず、すぐに溶け込めそうだ。輝友はオレが思っているより、気にしていないのかもしれない。そりゃ、ちょっと考えてみりゃ分かる。そんなに気にしてたら、一緒に食べになんて来ないだろう。
由夏の服装は夏らしく薄いノースリーブとジーパンで、思った以上に私服の可愛さがある。最初からその服装でこれば良かったのに。内心で突っ込む。
「今日は30度を越えるらしいよ?」
瑛華が笑いながら、日焼けクリームを取り出す。
「由夏もさぁ。こういうのに少しくらい気を使わないとね。女の子なんだから」
「はいはい。分かりましたよーだ」
よく言えば素朴。悪く言えば無関心。言葉なんて、いくらでも取り繕うことが出来るように出来てるんだ。突拍子に思った。
「どこに行くの?」
瑛華が日焼けクリームを由夏の腕に塗り終えたのをみて、輝友が訊いた。
「んー、大体渚たちが何を食べたいかにもよるんだけど」
「私ラーメンが食べたいなっ!」
「へ?」
オレが勝手につけた由夏へのイメージ。なんとなく由夏はイタリアンが好きだった。もちろん、聞いたわけではないが。少なくても、ラーメンは全く頭の中に無かった選択肢の一つではあった。
仙台に最も詳しく、お昼の全権を託された瑛華はそれをすっかり素通しして、笑いながら空を見上げた。青空が広がっている。遠くにはすっかり群青色に染まった東谷山の輪郭が細部まで見える。空気は大分乾いてきたようだ。
「じゃぁ中華料理屋さんに行こうか。気軽に入れる感じのお店あったし。なんていったっけ、あのアーケードの靴屋の前の……」
「あぁ」
輝友は掌を握りこぶしで叩く。
「福柳亭でしょ? 確かに安いしおいしかったよ」
「そうそう、それそれ」
「おいしいのか?」
『そうだね』
二人の声が重なる。由夏が傍らで嬉しそうに噴き出すのを横目に、オレは少し考えていた。和気藹々と店を検討する彼らの姿は、オレらよりずっと大人だ。否と無く感じる。
もしかして、二人は街にある色々な店を廻って歩いているのではないだろうか。そういう状況になれば考えることは、誰でも同じだ。
オレの知らないところで事実、街に出ているように、二人はもしかしたら。本当に、もしかしたらだけど。
『何、にやけてるの?』
思考の中に飛び込んできた、瑛華と輝友の声は再びピッタリだった。
彼氏彼女とか、そういうのはともかくとしても、コンビとしては完成されてるよな。
オレもたまらず噴き出して、今度は目立たないように、由夏もくすくす笑っていた。冷静で、隙がなさそうな彼女への先入観とは裏腹に、いくらでも付け所がありそうな笑顔で、風鈴を鳴らすような涼しげな声で。
「じゃぁ、行こうか」
先陣を切る二人に導かれるようにして、オレ達は歩いていく。
駅前で散策をして、適度の空腹と、時間を流すと、彼女達が言っていた「福柳亭」という店に入った。
福柳亭は輝友の説明通り、中華料理の割に手ごろな価格で、さっぱりとした味付けとボリュームは満足できるところだった。
由夏は出てきたランチの量に驚いた様子だったが、結局全部食べていた。オレも同じランチを選んだのだけれど、食いきることが出来なくて、瑛華に渡した。
「それだから、ちっちゃいんだよ。食べれば身長も伸びるのに」
「うるさいな、あげたんだから、さっさと食べなよ」
そういうと、瑛華は無言で頷き、小さい口をフルに使って、口の何倍も大きい肉まんをペロリと平らげていた。こんなに食べて、良く太らないもんだ。
隣で、由夏が笑っていた。
「代謝をよくすれば太らないのよ。筋トレをすれば筋肉維持のためのエネルギーで寝ていてても使うしね」
「ふーん」
何がおかしいのか、由夏はまだ笑っている。
オレは、少し笑いながら、ふと言った。
「由夏ってさ、もっと暗い人だと思ってたよ」
「なんで?」
「なんていうの。寄せ付けないイメージがあった。今では少し理解できてるけど……」
「理解ってのは?」
この言葉自体に大した意味があったわけじゃない。何気ない一つの会話のつもりだった。由夏の顔は緩みながらも、見ようによっては少し引きつっている。もしかして、悪いことを言ってしまったのかもしれない。
もちろん、最初はそこまで訊かれると思ってなかったから、若干言葉不足に陥りそうになったが、必死に考える。どういう答えを返せば由夏は納得するだろうとか、本当に色々な情報が頭から引き出されて、整理されていく。必死になるオレがおかしかった。
いつしか、瑛華と輝友の間の会話も途切れて、瑛華は手を止めた。オレの言葉に視線が注がれている。オレは試されているのだろうか。
少し考えて、言葉が纏まった。オレは軽く息を吸う。
「由夏って屈託ないじゃでしょ。その屈託のなさがあまりにも強すぎて、逆に作用してるんだと思う。例えば、仙台にジャージでこようとするところとか」
一瞬、空気が止まる。でもそれは一瞬だった。
隣で瑛華が大人びた笑声を立てた。由夏は「そうかな」と首を傾げてみている。表情こそさっきと変らず、ややしまり気味だったが、声自体は軽い調子で、納得はしてくれたらしい。
「そうだ。渚」
瑛華は今思い出したというより、むしろ暖めてたものを取り出すような口調で呟いた。
彼女はオレの耳元にスッと入って、そっとささやく。
「後で話があるんだけど」
「陸上のこと?」
彼女は静かに頷いた。気づくと由夏と輝友が変な表情をしていた。耳元で、声の勢いを極力減らした声だったから、賑わう店内なら由夏たちに聞こえるはずのない会話だが、瑛華の行為が行為だし、少しばかり変な顔をされて当然なのかもしれない。
瑛華は二人に持たれた誤解に近い感情を、振り払うように二回手を叩く。パンパン、と乾いた音がする。
「さ、どこに行く? 渚は行きたいところあるの?」
「たこ焼きが食べたい」
「あー、渚大好物だもんねー」
輝友が懐かしげに相槌を打った。
「魚が嫌いなくせにたこ焼きだけ食べられるってのは……」
瑛華も笑った。笑いながらに、中学生とは思えぬほど自然な動作で会計を済ませている。
(……ホント大人だ。やっぱ、なれてるのか)
「じゃぁ、たこ焼きを食べに行こうか」
「うん」
瑛華の、止まらない足に圧倒されながら、しばらく街を食べつくしていた。
* * * * *
由夏の希望で、東北大会までの予選が行われる県営陸上競技場が解散場所になった。街をぶらぶらしつくして、いつしか五時。本来ならまだ日は高いはずだったが、夕立を予想させる黒い雲が空を覆い始めて、当たりが急に暗くなっていた。
「じゃぁねー」
挨拶のかわり、金箔を一面に撒き散らしたような、キラキラとした笑顔で、輝友と由夏が走っていく。途中から二人が本気で走り始めたことに、気がついた。輝友の足はさすがに早いから、由夏には追いつけないと思っていたが、由夏もある程度までは意地を見せていた。女子相手に本気で走る輝友は、彼の真っ直ぐな性格を端的に表す。一体いつまでガキやってるんだか。
ポケットに手を突っ込む。空を見上げた。入道雲が厚く、重なっていた。
「あ、由夏のヤツにハンカチ貸したままだった」
「あー、でもあんなに全力疾走じゃ追いつけないね」
瑛華の笑顔の先に、どんどん小さくなっていく二人の背中が見えた。
「雨も降ってきそうだし、一つだけだから聞かせて」
「何?」
「電話じゃ伝わらないと思ったから――どうせ、出ることを前提に考えてるんでしょ」
「違うよ」
出る前提で考えてはいなかったが、確かにこのまま出ないままになるのか、と思うと少し残念に感じられたことはあった。だからこそ、掘り返されたのは失敗だったのかもしれない。彼女のやさしい言葉に、心のどこかで巣食っていたらしい「無念」の気持ちが、ピクリと反応するのを感じた。
なにかが「プツン」と音を立てて、切り放たれる。
「足の状態がまずいんだったら、素直に休んでよね。お願いだから」
「いや」
出来てはいけないはずの感情にスイッチが入り、渦を巻いて、勢いを増していく。なんでだろうと考える暇も泣く、必死に食い止めるオレの理性もあっさりと崩壊しそうで、オレのなかではウソがつけなかった。
弱い語気だったが、彼女には十分意味が伝わったらしい。わざとらしい大きなため息をついた。
「何のために走るの?」
「道があるから……だよ」
あまりにも自然に口から言葉が滑り出たことに驚く間。瑛華はもう一つ深い息をついた。
「後は渚に任せるよ。どうせ私が何か言ってももう無駄なんだろうから」
諦めに近い声で、彼女は肩を落とす。いつもなら、すぐさまに必死に否定するはずだ。なのに、今日は声が出ない。
彼女の頬で何かが光る。表情があまりに険しかったから一瞬瑛華が泣いているものかと思った。しかし違う。ポツリ、と頭に水滴が落ちた。空を見上げると、厚くなった入道雲から、大粒の雨が滴れ落ちようとしている。
「走るんでしょ?」
静かに頷く。瑛華は無理に笑顔を作ろうとしたが、結局崩れて、泣きそうな顔を見せるだけになってしまった。
「オレ、走るからね」
降り始めた雨がアスファルトをねずみ色に変えていく。同様に、オレの心も塗り替えていく。
いつの日だか、顔も良く知らないような女子に誘われたことがあった。あのときは、練習が入っていたので丁重に断ったはずだが、それ以来やけに気まずかったのを覚えている。そういえば、それ以来だ。
朝起きると、六時だった。
待ち合わせの時間までまだまだ余裕だと言うのに、目が冴える。人間、楽しみなことがあると、すぐに目が覚めるというけど、オレが例外でなく当てはまるというのは、少し悔しかった。
体を動かそうと思った。瞼も羽のように軽かった。軽く汗を流したい。今は気軽に走れるような状況じゃない。足は確かに重いけど、運動をサボった数日後の体の重さは嫌いだ。
「足を使わず、運動できるものか」
上半身のみでやれるようなスポーツというと……投げるスポーツ。投げるスポーツとなると、キャッチボールか。
キャッチボール程度の動きならば足を痛めることもないだろう。
しかし、相手が居ない。
妹を早朝に起して相手というのも悪いし。
足を使わず気軽に一人で出来てしまう運動。考えても考えても見つからず、何をするわけでもなく、家を出た。湿気で歪んだ空気が頬とすれ違う。
朝飯を作って、身支度を終えると、時針はちょうど「9」をさしていた。多岐公園で十分程度、何して過ごそうか。
ウォーキングで汗を流すのは嫌いではなかった。もともとランニングで完走しきるだけの体力もない。
そういえば、逆に由夏は長距離が得意だった。由夏は走り高飛びの選手で145cmは安定して飛んでくる。脚力が飛びぬけてるわけではないが、しっかりと結果を出してくる辺り、フォームに一縷の無駄もないのだろう。難しいことまで知らないが、彼女なりの努力の成果なんだろうな。きっと。
「兄貴、仙台に出るんでしょ? だったら買ってきて欲しい本があるんだけど」
「なんだ? お前が本なんて珍しい」
オレが言うと、妹の和海は頬をむっと膨らませた。これ以上何か言うと、喧嘩に発展しそうだったので、オレはこれ以上を自粛し、彼女の頼みだという「ハリーポッターと賢者の石」を、紙にメモして、ジーパンのポケットに入れた。
時間もあるので、待ち合わせ前に書店に向かうことにした。大双葉書店は八時から営業していたはずだ。
店内に入ると、さすがに色々な本が並んでいた。本を見つけるのに、時間はかからなかった。PHSの時計を見ると、まだ九時二十分。時間を潰す予定だったが、まだ時間に余裕はある。
時間を潰すものはあるかと、店内を見渡していると、奥のほうにCDなんかも置いてあることに気づく。これなら、時間をもてあますようなことも無いだろう。もう少しばかり店内を探索しようと、視界を回す。すると、朝方ただでさえ少ない客影の最たるところに一人、あまりにも背景にマッチしない、青いジャージを着た少女がいた。髪の長さから考えるに、女子。良く見ると、藤ヶ浦中のジャージだった。
誰だ?
不自然にならない程度の歩調で本棚に歩み寄り、その彼女に近づいてみる。と、見覚えのある横顔があった。
顔には薄く汗が滲んでいた。走ってきたらしい。ジャージが適度に崩されていた。
頬が緩む。大きく息を吸う。
「由夏ー!」
「きゃっ」
予想外の反応だったが、彼女の低い声は悲鳴になりそうでならなかった。静かな店内でもこの声なら響くまい。とっさの安全勘定だった。
彼女の手から一冊の本がすべり落ちる。由夏がさっきまで読んでいた本だ。
オレを由夏を見つめる、彼女の目の焦点が一向に合いそうにないことは少し気になったが、とりあえず商品を床に落としたままにするわけにいかないので、オレが拾おうとする。と、由夏が我に返ったように、慌てて制止する。「やめて」強い語調だった。そのとき一瞬見えた。ハードカバーで、掛かっている帯には「本当に、100人の友達を作る方法!」なんていうじれったい文句が謳われている。
(100人?)
由夏はようやく自分からオレを見ようとした。目にはいつもの輝きが戻る。しかし、うろたえているのは明らかだった。
どう考えても、あまり隠すような本には見えないが、何か理由でもあるのかもしれないな。なるべく本の表紙を見ないように本を拾い、彼女の手に戻すと、ぎこちないながら笑顔が戻っていた。
「ありがと」
「いえ、どういたしまして」
彼女はオレとの視線を繋いだままに、本についたほこりを取る意味で何度か本の表紙を叩き、棚に戻した。
「なんで渚がここに?」
「暇つぶし」
彼女の顔がいつに無く不安に満ちているのが関係するのかどうか分からないが、今日はとりわけ女の子らしい。良く見ると今日はいつも下ろしている後ろ髪を一つ結っている。ただ――
「なんで、ジャージなの?」
「いや……そのほかに服がなくてさ」
「本当に、それで仙台に出る自信がある?」
「……ダメかな?」
「ダメだよ!」
ふっとため息が出る。由夏が「ベン」と呼ばれるわけ。なんとなく分かった。明らかに若者としての常識が欠如しているのだ。
由夏という人をまともに知っている人間なら、少し考えて、こういうところも、由夏の魅力だと捕らえることも出来る。でも、まともに知らなかったら、あまり好かれる性格ではないだろうということは分かった。
「今からでも遅くないから、着替えてきなよ」
由夏は少し目をパチクリさせる。
「そうだね、着替えてくるよ」
さっきまでの由夏の様子が変だったから、少し心配したけれど、あまりそんなことはなさそうだった。少なくても本を戻したときからはいつもの由夏だった。
どういうことだろう。
もしかして、由夏はそういうことで実は悩んでるんじゃないか? オレが知らないだけで、もしかしたら。
(考えすぎか?)
由夏が足早に本屋から去っていくのを遠目、不思議な思いは何度も行ったり来たりしていた。
前日に切った啖呵の影響で、輝友とはやや付き合いにくいだろうと思っていたが、案外空気の修復には時間が掛からず、すぐに溶け込めそうだ。輝友はオレが思っているより、気にしていないのかもしれない。そりゃ、ちょっと考えてみりゃ分かる。そんなに気にしてたら、一緒に食べになんて来ないだろう。
由夏の服装は夏らしく薄いノースリーブとジーパンで、思った以上に私服の可愛さがある。最初からその服装でこれば良かったのに。内心で突っ込む。
「今日は30度を越えるらしいよ?」
瑛華が笑いながら、日焼けクリームを取り出す。
「由夏もさぁ。こういうのに少しくらい気を使わないとね。女の子なんだから」
「はいはい。分かりましたよーだ」
よく言えば素朴。悪く言えば無関心。言葉なんて、いくらでも取り繕うことが出来るように出来てるんだ。突拍子に思った。
「どこに行くの?」
瑛華が日焼けクリームを由夏の腕に塗り終えたのをみて、輝友が訊いた。
「んー、大体渚たちが何を食べたいかにもよるんだけど」
「私ラーメンが食べたいなっ!」
「へ?」
オレが勝手につけた由夏へのイメージ。なんとなく由夏はイタリアンが好きだった。もちろん、聞いたわけではないが。少なくても、ラーメンは全く頭の中に無かった選択肢の一つではあった。
仙台に最も詳しく、お昼の全権を託された瑛華はそれをすっかり素通しして、笑いながら空を見上げた。青空が広がっている。遠くにはすっかり群青色に染まった東谷山の輪郭が細部まで見える。空気は大分乾いてきたようだ。
「じゃぁ中華料理屋さんに行こうか。気軽に入れる感じのお店あったし。なんていったっけ、あのアーケードの靴屋の前の……」
「あぁ」
輝友は掌を握りこぶしで叩く。
「福柳亭でしょ? 確かに安いしおいしかったよ」
「そうそう、それそれ」
「おいしいのか?」
『そうだね』
二人の声が重なる。由夏が傍らで嬉しそうに噴き出すのを横目に、オレは少し考えていた。和気藹々と店を検討する彼らの姿は、オレらよりずっと大人だ。否と無く感じる。
もしかして、二人は街にある色々な店を廻って歩いているのではないだろうか。そういう状況になれば考えることは、誰でも同じだ。
オレの知らないところで事実、街に出ているように、二人はもしかしたら。本当に、もしかしたらだけど。
『何、にやけてるの?』
思考の中に飛び込んできた、瑛華と輝友の声は再びピッタリだった。
彼氏彼女とか、そういうのはともかくとしても、コンビとしては完成されてるよな。
オレもたまらず噴き出して、今度は目立たないように、由夏もくすくす笑っていた。冷静で、隙がなさそうな彼女への先入観とは裏腹に、いくらでも付け所がありそうな笑顔で、風鈴を鳴らすような涼しげな声で。
「じゃぁ、行こうか」
先陣を切る二人に導かれるようにして、オレ達は歩いていく。
駅前で散策をして、適度の空腹と、時間を流すと、彼女達が言っていた「福柳亭」という店に入った。
福柳亭は輝友の説明通り、中華料理の割に手ごろな価格で、さっぱりとした味付けとボリュームは満足できるところだった。
由夏は出てきたランチの量に驚いた様子だったが、結局全部食べていた。オレも同じランチを選んだのだけれど、食いきることが出来なくて、瑛華に渡した。
「それだから、ちっちゃいんだよ。食べれば身長も伸びるのに」
「うるさいな、あげたんだから、さっさと食べなよ」
そういうと、瑛華は無言で頷き、小さい口をフルに使って、口の何倍も大きい肉まんをペロリと平らげていた。こんなに食べて、良く太らないもんだ。
隣で、由夏が笑っていた。
「代謝をよくすれば太らないのよ。筋トレをすれば筋肉維持のためのエネルギーで寝ていてても使うしね」
「ふーん」
何がおかしいのか、由夏はまだ笑っている。
オレは、少し笑いながら、ふと言った。
「由夏ってさ、もっと暗い人だと思ってたよ」
「なんで?」
「なんていうの。寄せ付けないイメージがあった。今では少し理解できてるけど……」
「理解ってのは?」
この言葉自体に大した意味があったわけじゃない。何気ない一つの会話のつもりだった。由夏の顔は緩みながらも、見ようによっては少し引きつっている。もしかして、悪いことを言ってしまったのかもしれない。
もちろん、最初はそこまで訊かれると思ってなかったから、若干言葉不足に陥りそうになったが、必死に考える。どういう答えを返せば由夏は納得するだろうとか、本当に色々な情報が頭から引き出されて、整理されていく。必死になるオレがおかしかった。
いつしか、瑛華と輝友の間の会話も途切れて、瑛華は手を止めた。オレの言葉に視線が注がれている。オレは試されているのだろうか。
少し考えて、言葉が纏まった。オレは軽く息を吸う。
「由夏って屈託ないじゃでしょ。その屈託のなさがあまりにも強すぎて、逆に作用してるんだと思う。例えば、仙台にジャージでこようとするところとか」
一瞬、空気が止まる。でもそれは一瞬だった。
隣で瑛華が大人びた笑声を立てた。由夏は「そうかな」と首を傾げてみている。表情こそさっきと変らず、ややしまり気味だったが、声自体は軽い調子で、納得はしてくれたらしい。
「そうだ。渚」
瑛華は今思い出したというより、むしろ暖めてたものを取り出すような口調で呟いた。
彼女はオレの耳元にスッと入って、そっとささやく。
「後で話があるんだけど」
「陸上のこと?」
彼女は静かに頷いた。気づくと由夏と輝友が変な表情をしていた。耳元で、声の勢いを極力減らした声だったから、賑わう店内なら由夏たちに聞こえるはずのない会話だが、瑛華の行為が行為だし、少しばかり変な顔をされて当然なのかもしれない。
瑛華は二人に持たれた誤解に近い感情を、振り払うように二回手を叩く。パンパン、と乾いた音がする。
「さ、どこに行く? 渚は行きたいところあるの?」
「たこ焼きが食べたい」
「あー、渚大好物だもんねー」
輝友が懐かしげに相槌を打った。
「魚が嫌いなくせにたこ焼きだけ食べられるってのは……」
瑛華も笑った。笑いながらに、中学生とは思えぬほど自然な動作で会計を済ませている。
(……ホント大人だ。やっぱ、なれてるのか)
「じゃぁ、たこ焼きを食べに行こうか」
「うん」
瑛華の、止まらない足に圧倒されながら、しばらく街を食べつくしていた。
* * * * *
由夏の希望で、東北大会までの予選が行われる県営陸上競技場が解散場所になった。街をぶらぶらしつくして、いつしか五時。本来ならまだ日は高いはずだったが、夕立を予想させる黒い雲が空を覆い始めて、当たりが急に暗くなっていた。
「じゃぁねー」
挨拶のかわり、金箔を一面に撒き散らしたような、キラキラとした笑顔で、輝友と由夏が走っていく。途中から二人が本気で走り始めたことに、気がついた。輝友の足はさすがに早いから、由夏には追いつけないと思っていたが、由夏もある程度までは意地を見せていた。女子相手に本気で走る輝友は、彼の真っ直ぐな性格を端的に表す。一体いつまでガキやってるんだか。
ポケットに手を突っ込む。空を見上げた。入道雲が厚く、重なっていた。
「あ、由夏のヤツにハンカチ貸したままだった」
「あー、でもあんなに全力疾走じゃ追いつけないね」
瑛華の笑顔の先に、どんどん小さくなっていく二人の背中が見えた。
「雨も降ってきそうだし、一つだけだから聞かせて」
「何?」
「電話じゃ伝わらないと思ったから――どうせ、出ることを前提に考えてるんでしょ」
「違うよ」
出る前提で考えてはいなかったが、確かにこのまま出ないままになるのか、と思うと少し残念に感じられたことはあった。だからこそ、掘り返されたのは失敗だったのかもしれない。彼女のやさしい言葉に、心のどこかで巣食っていたらしい「無念」の気持ちが、ピクリと反応するのを感じた。
なにかが「プツン」と音を立てて、切り放たれる。
「足の状態がまずいんだったら、素直に休んでよね。お願いだから」
「いや」
出来てはいけないはずの感情にスイッチが入り、渦を巻いて、勢いを増していく。なんでだろうと考える暇も泣く、必死に食い止めるオレの理性もあっさりと崩壊しそうで、オレのなかではウソがつけなかった。
弱い語気だったが、彼女には十分意味が伝わったらしい。わざとらしい大きなため息をついた。
「何のために走るの?」
「道があるから……だよ」
あまりにも自然に口から言葉が滑り出たことに驚く間。瑛華はもう一つ深い息をついた。
「後は渚に任せるよ。どうせ私が何か言ってももう無駄なんだろうから」
諦めに近い声で、彼女は肩を落とす。いつもなら、すぐさまに必死に否定するはずだ。なのに、今日は声が出ない。
彼女の頬で何かが光る。表情があまりに険しかったから一瞬瑛華が泣いているものかと思った。しかし違う。ポツリ、と頭に水滴が落ちた。空を見上げると、厚くなった入道雲から、大粒の雨が滴れ落ちようとしている。
「走るんでしょ?」
静かに頷く。瑛華は無理に笑顔を作ろうとしたが、結局崩れて、泣きそうな顔を見せるだけになってしまった。
「オレ、走るからね」
降り始めた雨がアスファルトをねずみ色に変えていく。同様に、オレの心も塗り替えていく。
2006/07/08(土)
夏というのには、まだ早い五月が終わりにささしかかる頃から、運動部の練習にも急に熱が入ってきて、陸上部にも戸田先生が入ってのある程度ハードな練習が続いていた。
由夏と一緒になった野外活動実行委員をある程度真面目にこなしながらも、その生活リズムに大分慣れてきて、練習にもようやく取り組めるようになった。
その頃からだった。
乾いた土のフィールドを思いっきり蹴る。同時に太ももに刺すような痛みと、隠そうとする強い熱が走る。
ただの筋肉痛ではない。100mを駆け抜けて、すぐに感じる右足の違和感。タイムは出ているはずなのに、何か納得がいかない。
「陸上でのプレッシャーに負けてない?」由夏の言葉がチューニングを終えないオーケストラを聴いているような、腹立たしさを連れてくる。
そんなものに負けてたまるかよ。
心の中で繰り返す。
鼓動の高まりは収まらない。
それでもオレは土を蹴り飛ばす。走ってる途中、目を閉じる。それでも視界は暗くならない。だからといって明るくもない。ただ、赤い視野が広がった。その中。遠くからなにやら黄色い声が聞こえた。目をはっと開ける。100mの石灰ラインを飛び越えた。電子音が同時になった。
「すごいねー、早い早い」
ストップウォッチに出た数字をマジマジと見つめた由夏の目は、驚くほど丸に近かった。
「何秒だ?」
「12.53秒」
「ダメだなぁ、調子悪ぃ」
「12秒で調子悪いの?」
「ある程度、せめて11秒の前半くらい取れないとオレのメンツが立たんし」
「ひゃー」
こんなことを言うのは、自分で自分の行き場をなくすようで、好ましいやり方でないことは知っていたが、実際全国大会で優勝するようなタイムを目指すなら、それくらいは必要ではあるのは事実だった。それ以上に、オレは悔しかった。「負けてない?」脳内で声が反響する。そんなことあるか!
オレの答えに由夏は得体の知れない何かを見るような顔で、
「タイムってそんなに気にするものなのかなぁ」
「そうだけど、オレにとっちゃ後ろで期待してくれる人が居るから走れてるわけだし」
「そんなもんかぁ。やっぱり全国記録を作っちゃうような人は」
「そうだね」
彼女は何か言いたげに、一瞬息を吸いかけたけど、少し躊躇ってそのまま何も言わなかった。
「由夏はいいよなぁ、何にも悩みなさそうで」
「そんなことないよ」
キッパリと断言する、彼女のやけに真っ直ぐな視線は気になったが、それを加味してもあまり説得力はなかった。そんな、のほほんとした顔をして、悩みがあると打ち明けられたところで、信じるほうがおかしいような気がする。
「まぁ頑張ってよね」
「当たり前だろうが」
由夏の言葉に、威勢良く頷いてみた。由夏の安心した顔を見ると、心の熱いものが静まっていくのを感じた。何故か不思議な気分だった。
「ホント調子悪いな。休む時は休めよ?」
「大丈夫です」
戸田先生の言葉を一瞥するのすら億劫だった。いや、もちろん言葉が問題なわけでもない。戸田先生に問題は一つも無いのだが。目を閉じたい気分だった。そのままぶっ倒れたい。
それ以来、日を増すごとにタイムも徐々に落ちて、時間だけが過ぎていく。それで、練習すればするほどに痛みは大きくなってきた。
(どうしようかなぁ)
「よっ!」
思考の中に突然食い込んでくる声。後ろから聞こえる、ややスキップ調で、小気味良いテンポで高鳴りする足音は彼という人物を断定しやすくしていた。
「輝友か……」
「なんだその落ち込んだ声は」
「いや、なんとなくね」
次の言葉で、彼がオレに聞いてくるのは、間違えなく足の状態だろう。これは戸田先生のものとも、他の先生たちのとも本質が違うもので、期待というよりは、期待に押し潰されそうなオレを気使うものだった。
しかし、予想は外れた。
「お前と由夏。似てるよな」
「喜んだらいいのか、悲しんだらいいのか、分かんない台詞だな」
「結構仲良くなったみたいで、結構結構。傍から見ると恋人みたいだなと思ってたけど……」
オレの顔をチラッと見て、一つ微笑んだ後、「実際そんなことはなさそうだな」と付け加えた。
自分は冷静でいたいのに、体が熱を帯びてきて、顔に血が上ってくる。顔が赤くなっていると分かるから、余計たちが悪い。
「顔、赤いよ」
「うるせぇよ」
輝友はワンテンポ置いて、オレの顔を見つめた。彼の顔を見ていると、体の熱も次第に取れて、五月の中途半端な風が顔に吹き付ける。熱くも無く、冷たくも無く、ぬるくも無く。何の特徴もない風が自分の存在を確認するように、何とか輝友の髪を揺らしていた。そんな風に乗って、シャンプーの甘い匂いが鼻につく。
お互い正面を見合ったままに時間が過ぎて行った。
「どうせ、足の状態良くないんだろ?」
「バカ言え、最高だよ」
「お前の最高は最高だったためしがない」
彼はキッパリといって、オレ達の間に流れた空気を楽しむかのように一笑した。彼の輪郭が夏の日差しでデフォルメされて、大人っぽい輝きを持っていた。
「お前そんなコンディションで大会出ようっての?」
鋭い痛み。体がねじれる。膝をつく。右足の熱にコンクリートさえも熱された鉄板のように感じた。
見ると輝友がオレを見下ろしていた。右足がつく。オレの脛を輝友が思いっきり蹴ったらしい。
オレは何とか、立ち上がる。勝ち誇った顔をしてる輝友を睨み返すために。
「悪いか?」
「悪いよ。だって、あっちは本気で走って来るんだぞ? それを相手にこっちがそれじゃ、相手に失礼ってもんじゃないのか?」
輝友はキッパリと言った。そんなことはない、オレは切り替えした。
「だから、全力で走るよ。県大会まで進出できれば日があく。そこでゆっくり回復させればいいんだから」
「そんなんでいいのか」
「走りたいから走る、それだけだよ」
オレの答えに、彼はまた何か不服そうな顔をしたが、息と一緒に呑みこんだようだった。
一つため息をついて、彼は訊く。
「お前はなんで陸上部で走ろうと思ったの?」
「足が速いからだろ」
「そう、だよな」
頷きながらも、あからさまに納得してない、彼の残念そうな顔はなぜか脳裏に焼きついて、離れなかった。
学校と、家までは距離がほとんどないから、もともとスタミナのないオレであっても、何とか走りきることは出来た。
額から流れる汗が髪をしっとりと濡らした。駆け抜けたときの風が濡れた髪に触って、少しだけ冷たかった。
オレは輝友の言葉をずっと考えていた。もっとも、オレの思考が一番回らない時は走るときだからあまり意味はなさそうだったが。
何のために走るのか、なんて今更の言葉だ。別に道徳じみたこと考えることはないけれど、オレが走る理由なんて分かりきってる。
涼しいから走る。体を温めるために走る。それだけだろう。他に何の理由もあったものじゃないはずだ。
家の前の小路に入ると、息が切れて、同時に体がどうしようもないほど熱くなってきた。体の周りを巻いていた清風が勢いが消えたからなんだろう。
そして、ここまで考えられるということは、足の状態は悪くない。違和感を感じない。
「ここまでだと、問題はないんだけどなぁ」
この程度、ジョギング程度の走りなら、違和感はない。問題は100m、全力疾走の段階。
(確かに、全力疾走が出来なかったら、オレじゃないよなぁ、輝友が言いたいのはそういうことか?)
答えが見つからない不快感から、オレは強引に家のドアをあけた。
家に入ると、リビングのほうから、コール音が聞こえた。どうやら、リビングの電源で朝から充電していたPHSが鳴っているらしかった。
急いで、受話器を取ろうとして、PHSに視線を落とす。液晶画面に瑛華の名前が表示されていた。
オレは電話に出るべきか、一瞬迷ったが、結局受信ボタンを押す。
いや、考えてみろ。電話に出ない理由なんてないだろうが。
「はい、もしもし?」
『おー、渚。元気かー?」
「元気もなにも、さっき学校であってただろうが」
『中総体まで後一週間だな〜。足の状態は順調?』
「……実は冬のあの時を、思い出してる」
なんでこんなことを言ったのかは、自分でも良く分からなかった。
ただ、それを口にして、一つだけハッキリした。体全体に強い慄きが体に走ったということは、まだこの出来事がオレの脆さであることだ。あれが、怖い。確かに、怖い。
『冬の時って、徒競走で大怪我した時のこと? 順調じゃないの?』
「正直最悪なんだよ。走れる状態じゃないかもしれない」
輝友には威勢を張ったくせに、オレは今、何でこんなに弱気なんだろう。瑛華だからか?
(待て、瑛華だからって、どういうことだ?)
『どうせ、渚のことだ。強行出場考えてるでしょ』
「察しがいいな」
『これでも、目指す職業は医者ですから、観察力は命だよ』
「だれでも分かるの?」
『渚は特別だよ』
「……」
『なーんて、言ったら渚が喜ぶかなと思ったけど。そんなことはなさそうだね』
一瞬、脳裏に瑛華の白衣姿を想像して、ぞっとしたけれど、確かに瑛華の白衣はやけにはまっているに思えた。なんとなく、だけど。
『って、話聞いてる?』
「聞いてるけど。なんとなく、瑛華が医者ってのに驚いたっていうか」
『あれ、話してなかったっけ』
「初耳だよ」
ここで、一瞬空気の流れが滞る。瑛華がふっと躊躇ったように、一つ息を吐く。
『だから、私の立場でいうと、渚には出てほしくない。分かるでしょ? どう考えても、その出場があなたの右足に悪影響を与えることは確かなんだから……でも』
「でも……?」
『私がこんなことをいうと、ひねくれ者のナギのことだ。ぜーったい強行出場するに決まってる!』
瑛華は続ける、やや照れくさそうに。
「だからあえて言おう、勝手に出なさい!』
何かがはじけた。感動にも近い興奮だった。
「そういうお前も大分ひねくれてるけど」
こんな嫌味が瞬時に出せてしまう自分に少し驚きながらも、オレは笑い声を立てて見せた。
彼女の優しさに触れて嬉しい反面、この言葉に感動したオレがそのまま中総体を諦めてしまうのか、と思うと、なんだか複雑な心境になった。やっぱりオレは中総体に出たい。去年引退した三年生のことを思い出す。そうだ、応援しに着てくれるって言ってたじゃないか。それを無駄にするのか? オレは。
『はー、こんな辛気臭い話やめよ。やっぱ、私みたいに明るい子にはこういう話似合わないわ』
「あっそう」
電話線の奥で掌と掌が合わさる音がした。何かを思い出したらしい。瑛華のちょっとした癖のようなものだった。
『ところでね、そんな渚を心配した由夏からデートの誘いだよ』
「はぁ?」
突拍子のない話に、PHSを落としそうになる。
動揺がなるべく伝わらないように、声が震えないように、頭の中で一つ大きな息をつく自分を見つめる。
『皆で街に出て、なんかおいしいものでも食べましょうってことだって』
しかし次の一言で、気分が落ち込んでしまった。
「その皆っていうのに、瑛華や輝友も含まれるんだろ」
彼女はその問いに具体的には答えなかったが「ふふ」と笑った時点で、察しは容易につく。
瑛華にとって、要は街に詳しくないオレ達をやさしくナビゲーションするように見せかけ、結局おいしいものを食べたいだけなのだろう。
いつの間にか、二人は店の外で、伝票がオレの目の前に置かれてる、なんて良くギャグマンガにありがちな光景が本当にありそうで怖かった。一方でどこか楽しげではあったけど。
『嬉しい? 由夏みたいな美人さんと食事って』
「やっぱりアイツって美人か?」
オレは間違えなく美人だと思うけど、由夏が他の女子と付き合うとき、オレの知ってる彼女とは少し異なって見えたことがあった。
男子からは「ベン」などと、褒め言葉なのか貶してるだけなのか、良く分からないあだ名で呼ばれているけれど、男子と付き合うほうが、なぜか違和感を感じない。
そんな状態は、決して仲がいいとはいえないのかもしれないけど、それなりには会話もするし、両者は楽しそうだった。
オレの突然の切り替えしに、電話越しからも彼女の困惑の様子が見て取れるようだった。
「女子の目から見て、やっぱり美人か?」
『私は内面的に素晴らしい子だと思うんだけど、外も可愛いし』
「そうか」
相手の瑛華は何故こんな質問をされたのか、少し理解に苦しんでいるようだったが、それも構わないと思っていた。
さっきから、あまりにお互いが分かりすぎていたので、逆に心配になっていたところだったし。
別にこの質問自体にさほどの意味があったわけではないし。
『じゃぁ、明日。時間は十時頃。多岐公園のベンチ前ね』
「分かった」
『じゃぁね』
受話器をつけた、耳元がぽわんと熱かったのは、気温のせいだけではないのだろう。
(明日、由夏はどんな服装なんだろう)
軽く想像して、頬を赤らめる自分が居ることに、それほど驚きはしなかった。
由夏と一緒になった野外活動実行委員をある程度真面目にこなしながらも、その生活リズムに大分慣れてきて、練習にもようやく取り組めるようになった。
その頃からだった。
乾いた土のフィールドを思いっきり蹴る。同時に太ももに刺すような痛みと、隠そうとする強い熱が走る。
ただの筋肉痛ではない。100mを駆け抜けて、すぐに感じる右足の違和感。タイムは出ているはずなのに、何か納得がいかない。
「陸上でのプレッシャーに負けてない?」由夏の言葉がチューニングを終えないオーケストラを聴いているような、腹立たしさを連れてくる。
そんなものに負けてたまるかよ。
心の中で繰り返す。
鼓動の高まりは収まらない。
それでもオレは土を蹴り飛ばす。走ってる途中、目を閉じる。それでも視界は暗くならない。だからといって明るくもない。ただ、赤い視野が広がった。その中。遠くからなにやら黄色い声が聞こえた。目をはっと開ける。100mの石灰ラインを飛び越えた。電子音が同時になった。
「すごいねー、早い早い」
ストップウォッチに出た数字をマジマジと見つめた由夏の目は、驚くほど丸に近かった。
「何秒だ?」
「12.53秒」
「ダメだなぁ、調子悪ぃ」
「12秒で調子悪いの?」
「ある程度、せめて11秒の前半くらい取れないとオレのメンツが立たんし」
「ひゃー」
こんなことを言うのは、自分で自分の行き場をなくすようで、好ましいやり方でないことは知っていたが、実際全国大会で優勝するようなタイムを目指すなら、それくらいは必要ではあるのは事実だった。それ以上に、オレは悔しかった。「負けてない?」脳内で声が反響する。そんなことあるか!
オレの答えに由夏は得体の知れない何かを見るような顔で、
「タイムってそんなに気にするものなのかなぁ」
「そうだけど、オレにとっちゃ後ろで期待してくれる人が居るから走れてるわけだし」
「そんなもんかぁ。やっぱり全国記録を作っちゃうような人は」
「そうだね」
彼女は何か言いたげに、一瞬息を吸いかけたけど、少し躊躇ってそのまま何も言わなかった。
「由夏はいいよなぁ、何にも悩みなさそうで」
「そんなことないよ」
キッパリと断言する、彼女のやけに真っ直ぐな視線は気になったが、それを加味してもあまり説得力はなかった。そんな、のほほんとした顔をして、悩みがあると打ち明けられたところで、信じるほうがおかしいような気がする。
「まぁ頑張ってよね」
「当たり前だろうが」
由夏の言葉に、威勢良く頷いてみた。由夏の安心した顔を見ると、心の熱いものが静まっていくのを感じた。何故か不思議な気分だった。
「ホント調子悪いな。休む時は休めよ?」
「大丈夫です」
戸田先生の言葉を一瞥するのすら億劫だった。いや、もちろん言葉が問題なわけでもない。戸田先生に問題は一つも無いのだが。目を閉じたい気分だった。そのままぶっ倒れたい。
それ以来、日を増すごとにタイムも徐々に落ちて、時間だけが過ぎていく。それで、練習すればするほどに痛みは大きくなってきた。
(どうしようかなぁ)
「よっ!」
思考の中に突然食い込んでくる声。後ろから聞こえる、ややスキップ調で、小気味良いテンポで高鳴りする足音は彼という人物を断定しやすくしていた。
「輝友か……」
「なんだその落ち込んだ声は」
「いや、なんとなくね」
次の言葉で、彼がオレに聞いてくるのは、間違えなく足の状態だろう。これは戸田先生のものとも、他の先生たちのとも本質が違うもので、期待というよりは、期待に押し潰されそうなオレを気使うものだった。
しかし、予想は外れた。
「お前と由夏。似てるよな」
「喜んだらいいのか、悲しんだらいいのか、分かんない台詞だな」
「結構仲良くなったみたいで、結構結構。傍から見ると恋人みたいだなと思ってたけど……」
オレの顔をチラッと見て、一つ微笑んだ後、「実際そんなことはなさそうだな」と付け加えた。
自分は冷静でいたいのに、体が熱を帯びてきて、顔に血が上ってくる。顔が赤くなっていると分かるから、余計たちが悪い。
「顔、赤いよ」
「うるせぇよ」
輝友はワンテンポ置いて、オレの顔を見つめた。彼の顔を見ていると、体の熱も次第に取れて、五月の中途半端な風が顔に吹き付ける。熱くも無く、冷たくも無く、ぬるくも無く。何の特徴もない風が自分の存在を確認するように、何とか輝友の髪を揺らしていた。そんな風に乗って、シャンプーの甘い匂いが鼻につく。
お互い正面を見合ったままに時間が過ぎて行った。
「どうせ、足の状態良くないんだろ?」
「バカ言え、最高だよ」
「お前の最高は最高だったためしがない」
彼はキッパリといって、オレ達の間に流れた空気を楽しむかのように一笑した。彼の輪郭が夏の日差しでデフォルメされて、大人っぽい輝きを持っていた。
「お前そんなコンディションで大会出ようっての?」
鋭い痛み。体がねじれる。膝をつく。右足の熱にコンクリートさえも熱された鉄板のように感じた。
見ると輝友がオレを見下ろしていた。右足がつく。オレの脛を輝友が思いっきり蹴ったらしい。
オレは何とか、立ち上がる。勝ち誇った顔をしてる輝友を睨み返すために。
「悪いか?」
「悪いよ。だって、あっちは本気で走って来るんだぞ? それを相手にこっちがそれじゃ、相手に失礼ってもんじゃないのか?」
輝友はキッパリと言った。そんなことはない、オレは切り替えした。
「だから、全力で走るよ。県大会まで進出できれば日があく。そこでゆっくり回復させればいいんだから」
「そんなんでいいのか」
「走りたいから走る、それだけだよ」
オレの答えに、彼はまた何か不服そうな顔をしたが、息と一緒に呑みこんだようだった。
一つため息をついて、彼は訊く。
「お前はなんで陸上部で走ろうと思ったの?」
「足が速いからだろ」
「そう、だよな」
頷きながらも、あからさまに納得してない、彼の残念そうな顔はなぜか脳裏に焼きついて、離れなかった。
学校と、家までは距離がほとんどないから、もともとスタミナのないオレであっても、何とか走りきることは出来た。
額から流れる汗が髪をしっとりと濡らした。駆け抜けたときの風が濡れた髪に触って、少しだけ冷たかった。
オレは輝友の言葉をずっと考えていた。もっとも、オレの思考が一番回らない時は走るときだからあまり意味はなさそうだったが。
何のために走るのか、なんて今更の言葉だ。別に道徳じみたこと考えることはないけれど、オレが走る理由なんて分かりきってる。
涼しいから走る。体を温めるために走る。それだけだろう。他に何の理由もあったものじゃないはずだ。
家の前の小路に入ると、息が切れて、同時に体がどうしようもないほど熱くなってきた。体の周りを巻いていた清風が勢いが消えたからなんだろう。
そして、ここまで考えられるということは、足の状態は悪くない。違和感を感じない。
「ここまでだと、問題はないんだけどなぁ」
この程度、ジョギング程度の走りなら、違和感はない。問題は100m、全力疾走の段階。
(確かに、全力疾走が出来なかったら、オレじゃないよなぁ、輝友が言いたいのはそういうことか?)
答えが見つからない不快感から、オレは強引に家のドアをあけた。
家に入ると、リビングのほうから、コール音が聞こえた。どうやら、リビングの電源で朝から充電していたPHSが鳴っているらしかった。
急いで、受話器を取ろうとして、PHSに視線を落とす。液晶画面に瑛華の名前が表示されていた。
オレは電話に出るべきか、一瞬迷ったが、結局受信ボタンを押す。
いや、考えてみろ。電話に出ない理由なんてないだろうが。
「はい、もしもし?」
『おー、渚。元気かー?」
「元気もなにも、さっき学校であってただろうが」
『中総体まで後一週間だな〜。足の状態は順調?』
「……実は冬のあの時を、思い出してる」
なんでこんなことを言ったのかは、自分でも良く分からなかった。
ただ、それを口にして、一つだけハッキリした。体全体に強い慄きが体に走ったということは、まだこの出来事がオレの脆さであることだ。あれが、怖い。確かに、怖い。
『冬の時って、徒競走で大怪我した時のこと? 順調じゃないの?』
「正直最悪なんだよ。走れる状態じゃないかもしれない」
輝友には威勢を張ったくせに、オレは今、何でこんなに弱気なんだろう。瑛華だからか?
(待て、瑛華だからって、どういうことだ?)
『どうせ、渚のことだ。強行出場考えてるでしょ』
「察しがいいな」
『これでも、目指す職業は医者ですから、観察力は命だよ』
「だれでも分かるの?」
『渚は特別だよ』
「……」
『なーんて、言ったら渚が喜ぶかなと思ったけど。そんなことはなさそうだね』
一瞬、脳裏に瑛華の白衣姿を想像して、ぞっとしたけれど、確かに瑛華の白衣はやけにはまっているに思えた。なんとなく、だけど。
『って、話聞いてる?』
「聞いてるけど。なんとなく、瑛華が医者ってのに驚いたっていうか」
『あれ、話してなかったっけ』
「初耳だよ」
ここで、一瞬空気の流れが滞る。瑛華がふっと躊躇ったように、一つ息を吐く。
『だから、私の立場でいうと、渚には出てほしくない。分かるでしょ? どう考えても、その出場があなたの右足に悪影響を与えることは確かなんだから……でも』
「でも……?」
『私がこんなことをいうと、ひねくれ者のナギのことだ。ぜーったい強行出場するに決まってる!』
瑛華は続ける、やや照れくさそうに。
「だからあえて言おう、勝手に出なさい!』
何かがはじけた。感動にも近い興奮だった。
「そういうお前も大分ひねくれてるけど」
こんな嫌味が瞬時に出せてしまう自分に少し驚きながらも、オレは笑い声を立てて見せた。
彼女の優しさに触れて嬉しい反面、この言葉に感動したオレがそのまま中総体を諦めてしまうのか、と思うと、なんだか複雑な心境になった。やっぱりオレは中総体に出たい。去年引退した三年生のことを思い出す。そうだ、応援しに着てくれるって言ってたじゃないか。それを無駄にするのか? オレは。
『はー、こんな辛気臭い話やめよ。やっぱ、私みたいに明るい子にはこういう話似合わないわ』
「あっそう」
電話線の奥で掌と掌が合わさる音がした。何かを思い出したらしい。瑛華のちょっとした癖のようなものだった。
『ところでね、そんな渚を心配した由夏からデートの誘いだよ』
「はぁ?」
突拍子のない話に、PHSを落としそうになる。
動揺がなるべく伝わらないように、声が震えないように、頭の中で一つ大きな息をつく自分を見つめる。
『皆で街に出て、なんかおいしいものでも食べましょうってことだって』
しかし次の一言で、気分が落ち込んでしまった。
「その皆っていうのに、瑛華や輝友も含まれるんだろ」
彼女はその問いに具体的には答えなかったが「ふふ」と笑った時点で、察しは容易につく。
瑛華にとって、要は街に詳しくないオレ達をやさしくナビゲーションするように見せかけ、結局おいしいものを食べたいだけなのだろう。
いつの間にか、二人は店の外で、伝票がオレの目の前に置かれてる、なんて良くギャグマンガにありがちな光景が本当にありそうで怖かった。一方でどこか楽しげではあったけど。
『嬉しい? 由夏みたいな美人さんと食事って』
「やっぱりアイツって美人か?」
オレは間違えなく美人だと思うけど、由夏が他の女子と付き合うとき、オレの知ってる彼女とは少し異なって見えたことがあった。
男子からは「ベン」などと、褒め言葉なのか貶してるだけなのか、良く分からないあだ名で呼ばれているけれど、男子と付き合うほうが、なぜか違和感を感じない。
そんな状態は、決して仲がいいとはいえないのかもしれないけど、それなりには会話もするし、両者は楽しそうだった。
オレの突然の切り替えしに、電話越しからも彼女の困惑の様子が見て取れるようだった。
「女子の目から見て、やっぱり美人か?」
『私は内面的に素晴らしい子だと思うんだけど、外も可愛いし』
「そうか」
相手の瑛華は何故こんな質問をされたのか、少し理解に苦しんでいるようだったが、それも構わないと思っていた。
さっきから、あまりにお互いが分かりすぎていたので、逆に心配になっていたところだったし。
別にこの質問自体にさほどの意味があったわけではないし。
『じゃぁ、明日。時間は十時頃。多岐公園のベンチ前ね』
「分かった」
『じゃぁね』
受話器をつけた、耳元がぽわんと熱かったのは、気温のせいだけではないのだろう。
(明日、由夏はどんな服装なんだろう)
軽く想像して、頬を赤らめる自分が居ることに、それほど驚きはしなかった。
2006/07/06(木)
「速い速い。さすが県大会記録保持者」
「一応、全国記録なんだけど」
「へ。そうなの」
相変わらず、自分の負けを認めたくない輝友は、一見諦めとも見える声のなかにもちゃんと悔しさを滲ませていた。
「なんだかんだいって、一番悔しがってるの輝友じゃないの」
久しぶりの実戦で、長距離が苦手なオレや、もともとスタミナがない輝友を尻目に、瑛華は鋭く突っ込む。
「でも、渚の足の状態、大分いいみたいだね。一方のコイツは、吹奏楽部は呼吸が全てなんじゃなかったのか?」
「仕方ないだろうが、苦手なもんは苦手なもんで!」
「それでクラリネットが上手いなんて、私は神様が信じられん」
もうそろそろ、瑛華と輝友の喧嘩に発展しそうだったので、オレが制すると、お互い「フン」と鳴らしあって、そっぽを向いた。
(仲がいいんだか、悪いんだか)
この二人の関係も不思議だった。双方の負けず嫌いがぶつかり合って、友達というにはピリピリとしすぎているが、近所のよしみというには薄っぺら過ぎる。とりあえず二人はとにかく密接な関係だったのだ。
瑛華はどう考えても美形に位置する顔立ちで、さらりと流れる黒髪は荒が見つけるほうが難しいくらい。ここまでなら男子に絶大な人気を誇りそうだが、喧嘩っ早いところや、妙に強気なところが災いして、人気とは正反対の位置に立つ性格だった。それでも、正義の味方ではあって、喧嘩も強かったから、女子からだけの人気はあるのだが。
「そういえば、お前野外活動の実行委員らしいな。誰と?」
あまり触れられたくない話題だった。でも聞かれたからに、無視する訳には行かず、渋々「ベンと一緒なんだ」と告げると、二人の「へぇー」という声が上手く重なった。
二人は暫し、驚いたように顔を見合わせていたが、すぐにそっぽを向いた。瑛華は広がる田んぼを見つめるようにして、彼と視線を合わせようとしなかった。そこで会話の相手が輝友だけになった。
「お前は藤見と一緒かー。いいんじゃない? 彼女美人だし」
オレを励ましているのか、茶化しているのか、良く分からない口調で笑う輝友に、オレはどう反応すべきか悩んでいると、隣に居た瑛華がそっぽを向いたままに
「由夏はいいヤツだよ? 渚は同じ陸上部じゃなかったの?」
「確かにそうだけど、あんまり喋るヤツじゃないからなぁ。オレとしては瑛華と藤見が一緒に居ること自体結構違和感あるんだけど」
オレが言うと、彼女は口元をキュッと結んで、不満げにオレを見つめてきた。さっきから機嫌が悪いが一体何があったんだろう。
「まぁまぁ、二人ともそんな喧嘩腰にならず。喧嘩はよくないよ」
彼はもともと色素の薄い栗色で、サラリと流れる髪を少しなびかせ、やけに穏やかにオレ達の間に割って入った。さっきから喧嘩してたやつに、こんなことを言われるのは心底心外に感じたが、ここで彼を跳ね除けたら、この空気を元に戻すのはより難しいものになってしまうだろう。
「女の子として純粋に可愛いと思うけどな。顔立ちもいいし、勉強できるし、声もいいし。どこが不満なのか全然分からんぞ?」
「声か、確かに力があるといえばそうだな」
輝友の意外な着目点に、驚きながら頷くと、瑛華がやっと輝友のほうを見た。目力が強く、輝友がついたまらずに視線をそらす。
「私は何で彼女が低い評価なのか分かんないんだけどね。つれないからかな、それなりに面白いと思うんだけど」
「それは人の主観だからなぁ、でもなんとなく人を寄せ付けない雰囲気があるじゃない」
悪口でもなんでもない、オレの素直な感想だった。同じ陸上部とはいえ、出欠の確認ぐらいしか喋ったことがないというのは事実だったし。
「そう解釈しちゃダメだよ。人を理解して上げられないってのは人として、絶対褒められたことじゃないんだから。当然の理みたいに扱って、遠ざけようなんて卑怯でしょ?」
「お前はいつも正論だよな」
「どーも」
瑛華は堅い人間だった。でも言ってることはきっと間違えじゃない。なんとなく、気が楽になったのは、紛れもなく瑛華のお陰だった。
とはいえ、放課後部活に行くことすら許されず、資料室に閉じ込められるのは、やっぱりオレの性分には合わない気はまだしていた。そんな生活オレには絶対耐えられないだろう。
その懸念はその通りの現実だった。
「今日実行委員だからな」
早速逃げようとしたオレのブレザーを先生は強引に引っ張って、ドアの向こうに広がる世界から強く引き戻した。
悔しがるオレに先生は更に追い討ちを掛けるように笑う。
「オレが陸上部の顧問だってこと忘れてないか? 考えてみろ、お前がサボって部活に行ったところで、オレの手元にくる出欠表にはちゃーんと記されて、分かるようになってるんだ。どうだ? それでも抵抗するようなら、オレも何か手を考えるが」
先生は組んでいた腕を腰へとやった。身長とガッチリとした体格。怒ったらきっと怖いだろうな。……このまま、喧嘩なら絶対叶わない。
この重い空気を吐き出すために、オレは「まったく」と声を漏らす。
「先生は男子にだけ強気なんだから……」
「バカにするな、ここまで強気に出るのはお前くらいだぞ」
「それ、全然自慢になってませんよ」
それ以上突っ込みを入れる気力すら吸い取られたオレは、先生の仰せのまま、資料室に向かった。資料室はとにかく豊富な資料と、人の出入りの少なさ、会議にはもってこいの環境が揃っていた。もっとも、オレには都合が悪いだけになるが。
「渚くんと一緒か」
とぼとぼと歩いていたオレの脇に、藤見がいた。藤見はチラッとこちらを見た。陸上部指定の青ジャージをまくっている。長距離の選手だったから、長袖がめんどくさいのは分かっていたが、そういえばこういう着こなしもする子だったのか。
「足の調子はどうなの?」
「え? まぁ順調だけど」
藤見は無口。そんなイメージがあったからこそ、彼女からの気さくな問いかけに大きな衝撃が生まれた。
「先生とは仲いいんだね」
「戸田先生と? 多分そんなことは……」
ないよ。と言いかけたとで、藤見が声をねじ込んだ。
「タメ口だったでしょ? 私あんまりそういうことできないから、結構羨ましいんだよね」
「羨ましい?」
「うん」
「でも、お前と戸田先生だって仲がいいんじゃねぇの?」
藤見は少し不思議な顔をして、「なんで?」と訊いた。
「藤見だって藤見で戸田先生が名前で呼び捨てにしてるくらいなんだから、仲いいんじゃないかなって」
暫し表情を変えなかった藤見も、オレが「違う?」と付け加えると、かすかに頬を緩ませて、そうかなぁ、と呟いた。そういえば、彼女の笑顔も初めて見る。少し胸がときめくのを感じた。
思ってた以上に、可愛い……?
「お陰で少し元気になった。ありがと」
「藤見ってさぁ。なんていうの? もっと暗い人かと思ってた」
「よく言われるけど、そんなことはないと思うなぁ。私のイメージってそんなに暗いのかな」
「そんなこと、ないと思うけどね」
そういえば、オレは何で彼女を暗いと感じてたんだろう。
あまり喋ったことがなかったから? でも、他にだって話したことのないような女子はいるよな。顔立ちをどう解釈しても暗くはならないだろうし、声に要因があるとは思えない。
しばらく思考をめぐらせていたが、もともと大したことのなかった好奇心が萎えるのは時間の問題だった。
(そんなこと、どうでもいいか)
隣の藤見はオレの二三倍とも思えるスピードで、渡された課題の作業を進めていた。自主研修の班を決めるための単純作業。それだけに時間が削られていく、自分の精神力と共に。
せっかくの、共同作業なんだし、少しくらい喋ってみるか。
オレは心に決めて、ペンの勢いを少しばかり緩めた。彼女が気軽に話せるような話題を吟味するためだった。
「藤見ってさぁ」
「藤見って呼ぶのやめて。あんまり私そう呼ばれるの好きじゃないから」
彼女は全く同じ動きのまま、即座に反応した。
「じゃぁなんて呼べばいいの?」
戸田先生は「由夏と呼べ」とうるさかったけど、要は彼女自身の希望だろう。オレはペンを置いた。
「ベンはやめてほしいなぁ。それ以外だったら何でもいい」
彼女の小さな手に握られたシャープペンがカタカタと音を立てて、用紙には整った字体をした文字がどんどん記されていく。あまりにも滑らかで効率よく進んでいく作業。ここにも彼女のこなした場数の多さが伺えた。
「なら、由夏……でいいの?」
「構わないよ。私も渚って呼ぶから」
人の字を見ればその人の性格までもが自ずと分かるものだというけれど、それで考えるなら、彼女の性格は決して柔らかくはなさそうだった。それでも丸みだけはしっかりと帯びていて、それでいて崩れない。考えれば考えるほど、そのままに見えたのが可笑しかった。
次第に他のクラスの実行委員の人達も集まってきて、委員の顧問である榎田先生も教室に入る。
作業途中の用紙を自然な動作で見つめながら、たずねてくる。
「足の状態はどう?」
先生がオレに会うといつもこれだ。先生に限らず、大人の殆どがそうなのだけど。例外が居るとしたら、オレの親と戸田先生くらい。両親は近くの図書館で借りてきた本から「自主性」という言葉を引っ張り出してきて以来、都合よくオレに全てを任せている。
「順調です」
棚からいつも出す答えを取り出して、先生に渡すと、オレはひたすら作業に集中することを決めた。このままでは一時間も部活が出来ない。そんなことがあってたまるか。
手書きで記入された、クラス分のデータを積み重ねると、思わず声が出た。
「渚、お陰で大分はかどったよ」
オレが記入したのは彼女のこなした量の三割にも届かないが、それでも彼女の役には立ったらしい。一瞬、明日もやらなきゃいけない、ということすら忘れ、喜べた。
藤見……由夏が榎田先生に作業を渡すと、先生は感心したように手を叩いて「これ、二人でやったんだ?」と褒めてくれた。そこまでは明日へ続く辛い未来に、幸福がオブラートのようにつつんでくれていたのだが、いざオレ達の手から作業の証が離れると、オブラートは消滅し、辛い未来が暗く浮き上がった。
ついため息が出た。
「六時五分か。ゴメンね、部活終了までに終わらせられなくて」
彼女は腕時計を残念そうに見つめていた。赤い夕日で、頬を染めた彼女の横顔に瑛華の「由夏はいいヤツだよ」という言葉を思い出した。アイツがあれほどムキになったのも、今なら分かる。それくらいの価値を秘めた女の子なのかもしれない。
「いや、そんなことない。多分行ってても大して走れないだろうし、トレーニングくらいなら家でも出来るしね」
「そう?」
「大丈夫大丈夫、本当に大丈夫だから」
オレとしては、結構気を配ったつもりだったのだが、それでも、彼女のしぼんだ顔は変らなかった。見るにたえられず、オレはふらふらと立ち上がって、窓の方角に向かった。夕日が田んぼに映って、結局窓から見える全景をレッドに染めている。
「ねぇ渚」
「何?」
夕日の赤が網膜に焼きつき始めたのを感じ、オレは視線をそらした。
「もしかして、陸上でのプレッシャーに負けてない?」
「え? どういうことだ」
由夏の表情は茜色で強調されて、やけにキレイに見える。美少女というほどではないが、可愛い。
「いや、ね。さっき榎田先生が足の心配したとき、渚の顔が一気に曇ったから。もしかしてそういう声をうっとうしく感じてるのかな、と思ったの。期待されることに疲れてたんじゃないかなって」
胸が大きく跳ねた。
「違う?」
「あ、うん。そうだね」
彼女の念押しに、オレは抵抗する余地もなく、素直に頷いた。彼女があまりにも的確にオレの核心を読むので、もしかしたら、誰かに聞いたのかもしれないとも考えたが、あまりそれはなさそうだった。
なんでさっきからバツの悪そうな顔なのかと訊くと
「もしかして、私悪いことしちゃったかなと思って」
「え?」
「いや、私も同じようなこと言ってたじゃない?」
「そんなこと気にしてたの?」
自分の声がすっかり裏返りそうになる。
律儀というか、なんというか。
夕焼けで暮れなずむアスファルト。長い影。見つめていた。一人で就く家路に、由夏の顔を幾度なく思い浮かべながら、オレは歩く。時々、駆け足になりながら、歩く。
「一応、全国記録なんだけど」
「へ。そうなの」
相変わらず、自分の負けを認めたくない輝友は、一見諦めとも見える声のなかにもちゃんと悔しさを滲ませていた。
「なんだかんだいって、一番悔しがってるの輝友じゃないの」
久しぶりの実戦で、長距離が苦手なオレや、もともとスタミナがない輝友を尻目に、瑛華は鋭く突っ込む。
「でも、渚の足の状態、大分いいみたいだね。一方のコイツは、吹奏楽部は呼吸が全てなんじゃなかったのか?」
「仕方ないだろうが、苦手なもんは苦手なもんで!」
「それでクラリネットが上手いなんて、私は神様が信じられん」
もうそろそろ、瑛華と輝友の喧嘩に発展しそうだったので、オレが制すると、お互い「フン」と鳴らしあって、そっぽを向いた。
(仲がいいんだか、悪いんだか)
この二人の関係も不思議だった。双方の負けず嫌いがぶつかり合って、友達というにはピリピリとしすぎているが、近所のよしみというには薄っぺら過ぎる。とりあえず二人はとにかく密接な関係だったのだ。
瑛華はどう考えても美形に位置する顔立ちで、さらりと流れる黒髪は荒が見つけるほうが難しいくらい。ここまでなら男子に絶大な人気を誇りそうだが、喧嘩っ早いところや、妙に強気なところが災いして、人気とは正反対の位置に立つ性格だった。それでも、正義の味方ではあって、喧嘩も強かったから、女子からだけの人気はあるのだが。
「そういえば、お前野外活動の実行委員らしいな。誰と?」
あまり触れられたくない話題だった。でも聞かれたからに、無視する訳には行かず、渋々「ベンと一緒なんだ」と告げると、二人の「へぇー」という声が上手く重なった。
二人は暫し、驚いたように顔を見合わせていたが、すぐにそっぽを向いた。瑛華は広がる田んぼを見つめるようにして、彼と視線を合わせようとしなかった。そこで会話の相手が輝友だけになった。
「お前は藤見と一緒かー。いいんじゃない? 彼女美人だし」
オレを励ましているのか、茶化しているのか、良く分からない口調で笑う輝友に、オレはどう反応すべきか悩んでいると、隣に居た瑛華がそっぽを向いたままに
「由夏はいいヤツだよ? 渚は同じ陸上部じゃなかったの?」
「確かにそうだけど、あんまり喋るヤツじゃないからなぁ。オレとしては瑛華と藤見が一緒に居ること自体結構違和感あるんだけど」
オレが言うと、彼女は口元をキュッと結んで、不満げにオレを見つめてきた。さっきから機嫌が悪いが一体何があったんだろう。
「まぁまぁ、二人ともそんな喧嘩腰にならず。喧嘩はよくないよ」
彼はもともと色素の薄い栗色で、サラリと流れる髪を少しなびかせ、やけに穏やかにオレ達の間に割って入った。さっきから喧嘩してたやつに、こんなことを言われるのは心底心外に感じたが、ここで彼を跳ね除けたら、この空気を元に戻すのはより難しいものになってしまうだろう。
「女の子として純粋に可愛いと思うけどな。顔立ちもいいし、勉強できるし、声もいいし。どこが不満なのか全然分からんぞ?」
「声か、確かに力があるといえばそうだな」
輝友の意外な着目点に、驚きながら頷くと、瑛華がやっと輝友のほうを見た。目力が強く、輝友がついたまらずに視線をそらす。
「私は何で彼女が低い評価なのか分かんないんだけどね。つれないからかな、それなりに面白いと思うんだけど」
「それは人の主観だからなぁ、でもなんとなく人を寄せ付けない雰囲気があるじゃない」
悪口でもなんでもない、オレの素直な感想だった。同じ陸上部とはいえ、出欠の確認ぐらいしか喋ったことがないというのは事実だったし。
「そう解釈しちゃダメだよ。人を理解して上げられないってのは人として、絶対褒められたことじゃないんだから。当然の理みたいに扱って、遠ざけようなんて卑怯でしょ?」
「お前はいつも正論だよな」
「どーも」
瑛華は堅い人間だった。でも言ってることはきっと間違えじゃない。なんとなく、気が楽になったのは、紛れもなく瑛華のお陰だった。
とはいえ、放課後部活に行くことすら許されず、資料室に閉じ込められるのは、やっぱりオレの性分には合わない気はまだしていた。そんな生活オレには絶対耐えられないだろう。
その懸念はその通りの現実だった。
「今日実行委員だからな」
早速逃げようとしたオレのブレザーを先生は強引に引っ張って、ドアの向こうに広がる世界から強く引き戻した。
悔しがるオレに先生は更に追い討ちを掛けるように笑う。
「オレが陸上部の顧問だってこと忘れてないか? 考えてみろ、お前がサボって部活に行ったところで、オレの手元にくる出欠表にはちゃーんと記されて、分かるようになってるんだ。どうだ? それでも抵抗するようなら、オレも何か手を考えるが」
先生は組んでいた腕を腰へとやった。身長とガッチリとした体格。怒ったらきっと怖いだろうな。……このまま、喧嘩なら絶対叶わない。
この重い空気を吐き出すために、オレは「まったく」と声を漏らす。
「先生は男子にだけ強気なんだから……」
「バカにするな、ここまで強気に出るのはお前くらいだぞ」
「それ、全然自慢になってませんよ」
それ以上突っ込みを入れる気力すら吸い取られたオレは、先生の仰せのまま、資料室に向かった。資料室はとにかく豊富な資料と、人の出入りの少なさ、会議にはもってこいの環境が揃っていた。もっとも、オレには都合が悪いだけになるが。
「渚くんと一緒か」
とぼとぼと歩いていたオレの脇に、藤見がいた。藤見はチラッとこちらを見た。陸上部指定の青ジャージをまくっている。長距離の選手だったから、長袖がめんどくさいのは分かっていたが、そういえばこういう着こなしもする子だったのか。
「足の調子はどうなの?」
「え? まぁ順調だけど」
藤見は無口。そんなイメージがあったからこそ、彼女からの気さくな問いかけに大きな衝撃が生まれた。
「先生とは仲いいんだね」
「戸田先生と? 多分そんなことは……」
ないよ。と言いかけたとで、藤見が声をねじ込んだ。
「タメ口だったでしょ? 私あんまりそういうことできないから、結構羨ましいんだよね」
「羨ましい?」
「うん」
「でも、お前と戸田先生だって仲がいいんじゃねぇの?」
藤見は少し不思議な顔をして、「なんで?」と訊いた。
「藤見だって藤見で戸田先生が名前で呼び捨てにしてるくらいなんだから、仲いいんじゃないかなって」
暫し表情を変えなかった藤見も、オレが「違う?」と付け加えると、かすかに頬を緩ませて、そうかなぁ、と呟いた。そういえば、彼女の笑顔も初めて見る。少し胸がときめくのを感じた。
思ってた以上に、可愛い……?
「お陰で少し元気になった。ありがと」
「藤見ってさぁ。なんていうの? もっと暗い人かと思ってた」
「よく言われるけど、そんなことはないと思うなぁ。私のイメージってそんなに暗いのかな」
「そんなこと、ないと思うけどね」
そういえば、オレは何で彼女を暗いと感じてたんだろう。
あまり喋ったことがなかったから? でも、他にだって話したことのないような女子はいるよな。顔立ちをどう解釈しても暗くはならないだろうし、声に要因があるとは思えない。
しばらく思考をめぐらせていたが、もともと大したことのなかった好奇心が萎えるのは時間の問題だった。
(そんなこと、どうでもいいか)
隣の藤見はオレの二三倍とも思えるスピードで、渡された課題の作業を進めていた。自主研修の班を決めるための単純作業。それだけに時間が削られていく、自分の精神力と共に。
せっかくの、共同作業なんだし、少しくらい喋ってみるか。
オレは心に決めて、ペンの勢いを少しばかり緩めた。彼女が気軽に話せるような話題を吟味するためだった。
「藤見ってさぁ」
「藤見って呼ぶのやめて。あんまり私そう呼ばれるの好きじゃないから」
彼女は全く同じ動きのまま、即座に反応した。
「じゃぁなんて呼べばいいの?」
戸田先生は「由夏と呼べ」とうるさかったけど、要は彼女自身の希望だろう。オレはペンを置いた。
「ベンはやめてほしいなぁ。それ以外だったら何でもいい」
彼女の小さな手に握られたシャープペンがカタカタと音を立てて、用紙には整った字体をした文字がどんどん記されていく。あまりにも滑らかで効率よく進んでいく作業。ここにも彼女のこなした場数の多さが伺えた。
「なら、由夏……でいいの?」
「構わないよ。私も渚って呼ぶから」
人の字を見ればその人の性格までもが自ずと分かるものだというけれど、それで考えるなら、彼女の性格は決して柔らかくはなさそうだった。それでも丸みだけはしっかりと帯びていて、それでいて崩れない。考えれば考えるほど、そのままに見えたのが可笑しかった。
次第に他のクラスの実行委員の人達も集まってきて、委員の顧問である榎田先生も教室に入る。
作業途中の用紙を自然な動作で見つめながら、たずねてくる。
「足の状態はどう?」
先生がオレに会うといつもこれだ。先生に限らず、大人の殆どがそうなのだけど。例外が居るとしたら、オレの親と戸田先生くらい。両親は近くの図書館で借りてきた本から「自主性」という言葉を引っ張り出してきて以来、都合よくオレに全てを任せている。
「順調です」
棚からいつも出す答えを取り出して、先生に渡すと、オレはひたすら作業に集中することを決めた。このままでは一時間も部活が出来ない。そんなことがあってたまるか。
手書きで記入された、クラス分のデータを積み重ねると、思わず声が出た。
「渚、お陰で大分はかどったよ」
オレが記入したのは彼女のこなした量の三割にも届かないが、それでも彼女の役には立ったらしい。一瞬、明日もやらなきゃいけない、ということすら忘れ、喜べた。
藤見……由夏が榎田先生に作業を渡すと、先生は感心したように手を叩いて「これ、二人でやったんだ?」と褒めてくれた。そこまでは明日へ続く辛い未来に、幸福がオブラートのようにつつんでくれていたのだが、いざオレ達の手から作業の証が離れると、オブラートは消滅し、辛い未来が暗く浮き上がった。
ついため息が出た。
「六時五分か。ゴメンね、部活終了までに終わらせられなくて」
彼女は腕時計を残念そうに見つめていた。赤い夕日で、頬を染めた彼女の横顔に瑛華の「由夏はいいヤツだよ」という言葉を思い出した。アイツがあれほどムキになったのも、今なら分かる。それくらいの価値を秘めた女の子なのかもしれない。
「いや、そんなことない。多分行ってても大して走れないだろうし、トレーニングくらいなら家でも出来るしね」
「そう?」
「大丈夫大丈夫、本当に大丈夫だから」
オレとしては、結構気を配ったつもりだったのだが、それでも、彼女のしぼんだ顔は変らなかった。見るにたえられず、オレはふらふらと立ち上がって、窓の方角に向かった。夕日が田んぼに映って、結局窓から見える全景をレッドに染めている。
「ねぇ渚」
「何?」
夕日の赤が網膜に焼きつき始めたのを感じ、オレは視線をそらした。
「もしかして、陸上でのプレッシャーに負けてない?」
「え? どういうことだ」
由夏の表情は茜色で強調されて、やけにキレイに見える。美少女というほどではないが、可愛い。
「いや、ね。さっき榎田先生が足の心配したとき、渚の顔が一気に曇ったから。もしかしてそういう声をうっとうしく感じてるのかな、と思ったの。期待されることに疲れてたんじゃないかなって」
胸が大きく跳ねた。
「違う?」
「あ、うん。そうだね」
彼女の念押しに、オレは抵抗する余地もなく、素直に頷いた。彼女があまりにも的確にオレの核心を読むので、もしかしたら、誰かに聞いたのかもしれないとも考えたが、あまりそれはなさそうだった。
なんでさっきからバツの悪そうな顔なのかと訊くと
「もしかして、私悪いことしちゃったかなと思って」
「え?」
「いや、私も同じようなこと言ってたじゃない?」
「そんなこと気にしてたの?」
自分の声がすっかり裏返りそうになる。
律儀というか、なんというか。
夕焼けで暮れなずむアスファルト。長い影。見つめていた。一人で就く家路に、由夏の顔を幾度なく思い浮かべながら、オレは歩く。時々、駆け足になりながら、歩く。
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